おせっかい宣言

第13回 手仕事

2015.08.20更新

 不器用で雑な人間なので、手仕事らしい手仕事など、何もできはしない。もう還暦の声をきこうか、という年齢なのに、このだらしなさはどうだ。布があるから服を縫え、といわれても、端をかがってテーブルクロスにするくらいがせいぜい、ミシンもかろうじて使い方くらいは覚えているが、心もとないかぎりだ。 

 いまを去ること15年くらい前、生まれてからずっと住んでいたブラジルから日本にきて、東京の区立小学校に入学することになった息子たちふたりのために、近所の友人に借りたミシンで必死の面持ちで「給食袋」、「連絡帳入れ」、「給食用ナプキン」等々をなんとか縫ったのが、わたしとミシンの最後の記憶である。

 それまで長く日本に住んでいなかったため、日本の母親は幼稚園とか小学校にはいる子どもたちのためにいやがおうでもミシン仕事をしなければならない、ということをすっかり忘れていたのだ。日本でこどもを幼稚園や保育所に送っていれば、こういうことにも慣れたあとに、小学生になるわけだが、突然、小二と小四を入学させたので何も知らなかったのだ。

 日本語の会話と読み書きにはほとんど不自由はなかったものの、「気をつけ」、「まえならえ」、「やすめ」とかいう記号と行動がいっさいむすびつかず、給食はバイキングだと思い、体育の時間の50m走は全力で走るべきである、ということもよく理解できなかった息子たちもかわいそうだったが、親の文化的落差もかなりのものになっていた。国連人口計画に勤め、一年間のサバティカルをとって小学生連れで日本にやってきた友人も、最も高かったハードルはこの「給食袋づくり」であった、といっていた。

 あとになって聞くところによると、新学期にはそのようなものも、ミシンが家にないお母さんたちがほとんどである昨今、しかも、外国籍のお母さんも増えている今、ちゃんとまとめてスーパーで購入することができるらしいのだが、うちの子どもたちは二学期から突然転校してきたのでそのようなものは売っていなかった、というわけである。

 もちろんわたしたちの世代でも手先が器用で、何でもつくります、という方もおられることは知ってはいるが、ごくふつうの日本の女たちは、母親たちも、祖母たち(わたしの世代)も、もう何もつくらないことになってしまって久しい。必要がない。衣服はなんでも安価で買えるし、なんでも洗濯できるようになったし、ほとんど「使い捨て」状態なのである。伝承、というものは伝承されないと途絶える。必要がなくなると次の世代が覚える必要がなくなる。

 他の本にちらっと書いたことがあるのだが、作家の石牟礼道子さんと森崎和江さんにそれぞれまったく別々に、「戦後物資が十分でなかった頃、夫の背広を自分で縫った」話を伺っている。ほかの洋服をほどいて、背広にしたのだという。さらっと書くけれど、みなさま、どのようなことかおわかりでしょうか。「他の衣服をほどいて新しい服につくり直す」というのは、実は、和服の伝統からして、しごく真っ当な行為であったのである。

 「きもの」は、直線の布を裁ち、縫っていくものだ。だから、たたむときれいな、ぺたんとした四角形になり、収納しやすい。洋服が立体的につくってあるから、ハンガーにかけて洋服ダンスにしまうしかないのとくらべ、きものは折り目にそって適切にたためば、いくらでもタンスにかさねていけるものだ。

 そして、きものは、「ほどいて、洗って、縫い直す」ものであった。汚れると、季節の終わりに、家の女たちは、家族のきものを「ほどく」。きものの縫い目をぜんぶほどいて、「きもの」を「布」にもどす。そして布になった一枚一枚を、水で洗い、「洗い張り」用の竹ひごや板にしわを伸ばしてのりをつけ、「張って」かわかす。そして、きれいになった布をもう一度きものに縫い直すのである。

 昭和30年代生まれのわたしの記憶には、「洗い張り」は存在しない。わたしの母の世代は、その母たち、つまりはわたしの祖母たちがひんぱんに洗い張りをしてきものを縫い直していたことをよく覚えている。きものはそのようにして、ほどかれ、洗われ、縫い直され、新品のようになって、家族一人一人にまた届けられる。洗い張りと縫い直し、は、主婦にとって「大切な仕事」だったのである。

 石牟礼さんや森崎さんは、現在50代であるわたしの、母親世代にあたる方たちであるから、「洗い張り」はなさっていたかもしれないが、その親の世代ほどにはなさっておられなかっただろう。しかし彼女たちの脳裏には、衣服とは「ほどいて、洗って、縫う」ものであることは、あきらかに刻まれていただろうから、着るものが必要だったり、足りなかったりするときは「ほどいて、洗って、縫った」のである。

 つまり、現在80代くらいの女性たちは、すでに和服を日常となさっていた方々ではないが、手仕事の伝承はしっかりと身につけていた。日本が和装から洋装にかわるところを担った世代だから、せっせと家で縫い物や編み物をやっていたのだ。「洋裁」とか「編み物」は、昭和30年代生まれのわたしたち娘たちにとって、母親がとにかく時間さえあればやっていた・・・と記憶する作業である。

 わたしたちの多くは、母のつくった洋服を着て、母の編んだセーターをきていた。つくった服は、大人の服がほどかれてつくられたものであったりしたし、セーターもサイズが合わなくなったり、汚れてきたりすると、「ほどいて」、毛糸を湯のしして、編み直されていた。和服の扱い方の伝統にのっとって、ほどいて、洗って、縫い直して、洋服がつくられていたのだ。「給食袋」や、「連絡帳入れ」はそのころの女たちにとっては、文字どおり朝飯前のなんでもない作業だったに違いない。

 それにしても。
 「背広が縫える」というのは尋常ではない。のちに作家として名をなすほどの、知的で才能あふれる女性たちが主婦として暮らしていたころ、背広だって縫った、という現実に、わたしはしばし考え込んでしまうのだ。ほどいて、洗って、背広に縫い直す。和服の扱いの伝統は、次の世代に、まことに洗練された洋装の手作りを残していたのだ。単なる子どもの服ではなく、仕立て屋がつくると思われるような背広をも、創造できる腕であった。

 さて、きものの洗い張りから三世代目、背広が縫える世代からは二世代目のわたしたちは、給食袋にすら右往左往する世代であった。女たちが担ってきた伝承は、わたしの世代が途絶えさせた。特別な職人の伝統芸が失われていくことは、喪失感が大きく、悲しみをともなう。しかし特別な職人さんがあらわれるためには、もともとこのような家庭での手仕事をになう膨大な女たち、そして、男たちがいたのだ。その中で突出した腕をもっていたり、そういう家に生まれたりした人が、職人になったのだ。

 手仕事は本当によいものです、と石牟礼さんはおっしゃっていた。面倒なことというより、自分が何かを作り上げる喜びにつながっているし、一針、一針縫い上げていくことは心の平安につながる。生きづらいとか、いやなことばかりだ、とか、毎日たいへんだ、とか、一体何にたいへんなのかわからないような日常をわたしたちは過ごしており、この失った手仕事の伝承の大きさなど、もちろん気づく暇もない。背広が縫えた女たちの世代も、だんだん過去の世代になりつつある。記憶にある間に、記憶のみであっても、伝えなければならないのではないか、と自らにあきれつつ、思うのである。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

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