おせっかい宣言

第16回 安産

2015.11.04更新

 女子大に勤めはじめて11年、そろそろ卒業生の出産の知らせが舞い込むようになった。今年だけで5人くらい生まれているような気がするし、昨年から考えると10人くらい生まれているのではあるまいか。

 そのうちのひとりは、陣痛が始まったので産院に電話したが、「初産なんだから、そんなにすぐ産まれませんよ、まだまだ大丈夫ですよ」といわれたので家にいたが、どうも産まれそう。やっぱり産院に行ったほうがいいなあ、と家を出かけたところ、すごいいきおいで赤ちゃんが降りてきて、玄関で産んでしまった、という。本人は、結構冷静で、あ、産まれちゃった、ちゃんとくるんであげなくちゃ、と落ち着いてバスタオルで赤ちゃんをくるみ、産院に電話した。助産師さんはもちろん驚いて、「すぐ救急車できてください」ということになったらしい。陣痛くらいで救急車はいらないから、最近は陣痛のときに呼べるタクシーの制度などがととのってきているが、さすがに産まれたということなら、救急車で行ってもいいと、わたしも思う。赤ちゃんもおかあさんも無事で、一人で産んだ、という事実が、彼女をずいぶん自信に満ちた母親にしている。今の世の中、もちろん、自分一人で産まないで、しかるべき介助者のもとで産むことがよい。これだけすぐれた介助者である助産師や産科医がいる国なのであるから、そして、お産難民、などといわれようと、産院がなくなってしまった、といわれようと、この国ではなんとかすれば出産介助のプロをみつけられるだけの情報とシステムはあるから、ぜひぜひ利用してほしい。しかし、産まれてしまったものはしかたないし、間に合わなくて産まれてしまった、は、実はたいへんな安産であり得る、ともいえる。

 実はこの方は「発展途上国の、ある州における自宅出産禁止について」の研究をした人であった。その州では、施設出産を勧めており、自宅出産は禁止となっており、自宅出産を介助した介助者も、産んでしまった女性もおとがめにあう、ということになってしまった。もちろん当局としては悪気があるはずもなく、彼らは彼らなりに「出産の安全」をめざしているわけである。「施設での出産」と「計画された自宅出産」の安全性は変わらない、という科学的根拠はあるのだけれど。世界中で「出産の安全のためには施設分娩推進」と思われている。自宅で産んではいけない、ということに当惑する母親たちや介助者たちのインタビューをしてきた彼女は「まさか、自分が家で産むことになるとは。こういうことも、場所によっては、おとがめにあうわけですよね」と、感慨深げだった。人生かけて追って行くテーマになった、という。まことに人生に起こることは意義深いことばかりだ。

 玄関で産んだ彼女は極端な例とも言えるが、そのほかの卒業生たちからも、「産院について一時間で産みました」、とか「二時間半で産みました」とか「四時間で生まれました!」とかいう知らせが届く。早ければよい、というわけでもないことは百も承知の上、みんな安産で何よりだなあ、と思う。微弱陣痛で何日も苦しんだあげく帝王切開、ということになっても、母子ともに元気なら誰もなにも文句を言わないし、わたしも結構なことだと思うが、安産に越したことはあるまい。ほんとうによかった。
 と、ふとわたしは気づいた。みな、安産じゃないか。えらく簡単そうに産んでいるではないか。

 わたしは母子保健の研究者である。お産や子育てのことをいろいろ研究してきた。そして、自然なお産がいかに母親にとってよき経験であり得るか、を研究してきた。でもまあ、それはわたしの研究の一つである。それを勤め先の教え子に諄々とさとしているわけではない。講演会をすると、「こういう話がきける学生さんはいいですね」などといわれるが、講演会でするような話を、大学で教えていない。大学では、自分の国際保健などの専門分野を講義し、学生の論文指導を黙々とやっているのである。だから、学生相手に講演会で言うような「自然な出産」とか「母乳哺育のすすめ」とか「おむつなし育児」とか「月経血コントロール」みたいな話を、いつもしているわけではないのだ(たまにはすることもあるけど)。ゼミ生でもわたしの本など手に取ったこともない人がほとんどなのではあるまいか? 教師としてのわたしは、研究者だったり、ものかきだったり、講演したりするわたしとはちょっとちがって、ただただ個人的な教師-学生関係の中で生かされているにすぎない。だからお産はどうこう、とか、あんまり学生に言ってない。それでも、とりわけゼミ生は3年間一緒に過ごすから、お互い裏も表も知り尽くすようなディープな関係になる。そういう中で、直接話をしていないようなことでも、わたしの考えていることは非言語メッセージとして彼女たちに伝わっているのかもしれない。いや、伝わっているのであろう。「お産は大変なだけではなくて楽しい経験です」「そんなにこわいものじゃなくて、産んだらまたもう一人産みたい、とかすぐ言う人もいる」とか、そういう非言語メッセージが。
 これだけ一時間で産みました、とか三時間で産みました、とか、あっという間のお産でした、などという話をきいていて、5件めくらいで、ふと、そういうことではないのか、と考えたのである。

 何度も引用させてもらっているが、1970年代、山梨県棡原地区の話。産婆もおらず病院もないのに、この村では産前産後ずっと、新生児死亡率、妊産婦死亡率が極めて低い。家族計画協会は、その秘密を知りたくて、70年代に調査にはいっている。小柄でほっそりしたおばあちゃんたちはみんな口を揃えて
「お産はなんでもないよ」「何人でも産めるよ」「誰でも産めるよ」「たいしたことないよ」という。いったいなにがよかったのか、さっぱりわからなかった、というような調査結果であるが、ここには重要なことが示されている。女の子としてうまれたときから、「お産なんかなんでもない」、というメッセージしかきいていなかった女性たちは、長じて、「何でもないお産」を延々とつづけることになっていた、という話である。ただの話ということなかれ。からだと自分に自信を持ち、大丈夫、と思うことが、その人を大丈夫にするのだ。誰でも産めるのだから、わたしだって産める、と信じられるのだ。その信条が、一人一人を強くする。「お産は苦しい」「妊娠出産は女性の人生の妨げ」「子育ては負担」と言いつのり、わたしたちは若い世代に呪いをかけていないか。

 わたしは妊娠出産に肯定的な経験を伝えたいと思っている。そのことが、ひょっとしたら、棡原に通じるようなものになっている、とは言えないか。お産はなんでもないよ、楽しいよ、といっているから、みんな簡単に産んでいるんじゃないか。いや、過信はすまい。どんなお産をする卒業生も、いや、子どもを産まない卒業生も、男性パートナーがいらない卒業生も、みんなみんな、愛しているから、「卒業生はみんな安産」とか、絶対言いたくない。しかし、現実には、わたしに届く話は、安産が多いのだ。

 鼻からスイカ出すみたいに痛い、とかピアノ出すみたい、とかろくでもないことをいわれたり、お産はたいへん、おっぱいはたいへん、子育ては虐待の温床、とか、女を脅してろくなことはない。それは呪いである。若い女性には、出産も子育ても楽しいよ、女の体を生きることは豊穣だよ、更年期もまた、楽しいよ、というメッセージを、祈りとして届けたい。誰になんと言われても、言い続けることにしたいし、そうならなかった人には、心尽くして寄り添っていたい、と思うのである。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

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