おせっかい宣言

第20回 マルグリット・デュラス

2016.03.18更新

 マルグリット・デュラスを初めて読んだのは、1987年だった。ロンドンに留学していたとき、同級生のスペイン人の友人に、「あなた、日本人なの? "ヒロシマ・モナムール"を知ってる? 知らないの? 読むべきよ」と言われたのが、最初にデュラスの名前を知ったきっかけだった。残念ながら"ヒロシマ・モナムール"のことは知らず、それが、1958年にわたしが生まれて間もない頃に『二十四時間の情事』という邦名で公開された映画の原題であることを知ったのは、それからかなり後のことであった。当時はインターネットなどなかったので、さくっと検索、すぐに疑問が解決、などという芸当は、普通の人にはできなかったのである。ほどなくくだんのスペイン人の友人は1984年に出版され、当時ベストセラーだった『愛人(ラマン)』を買ってきてくれて、わたしは初めてデュラスを読んだ。日本語でもフランス語でもなく、英語で読んだのだ。

 『愛人(ラマン)』は、言わずと知れた、「インドシナで貧しいフランス植民者の娘として生きる15歳の少女が、金持ちの中国人の愛人となり、性的に目覚めてゆく物語」であり、デュラスの代表作となっていった作品である。白人とオリエンタルが愛し合うことについて、イギリスに住み始めたわたし自身も考えるところが多かった時期でもあり、印象的な作品だった。しかし、それ以降、約三十年、わたしの人生は、デュラスなしに過ぎていった。デュラスは、とくにわたしに何を迫ることもない、『ラマン』を書いた有名なフランス女性作家にすぎなかった。

 人との出会いと別れがあるように、作家との出会いと別れもある。そう書いていたのは、高橋和己だったか、とにかくわたしはデュラスにロンドンで「出会った」が、そのまま別れてしまったのだ。わたしの人生は、デュラスの作品と交錯することなく、過ぎていった。人との出会いが運命としか言いようがないように、出会うべき作家との出会いもまた、運命であり、それが運命であるなら、一度別れても、必ず、また、出会う。運命の人と出会ったならば、いくら大げんかして別れてしまっても、信じられない別れの言葉を投げつけられても、あり得ない場所でばったりとまた遭遇したり、時間をおかずにさらに、出会ってしまったりするように。ばったりと再会したからといって、また仲良くなれるわけでもないが、思わぬ再会は、運命の確認には、なり得て、そこから立上がるものもなにか、その時、言葉にできなかったとしても、確実にありはするのである。

 インドシナで育ち、ティーンエイジャーのときにフランスにもどり、政治活動に関わり、第二次世界大戦後、ダッハウ強制収容所にいれられて帰還した夫を介護し、彼が元気になったところで、別れを告げて、別の男の子どもを産み、「堅気な男好き」として、男性遍歴を重ね、小説を書き続け、映画を撮り、60代で38歳下の男性(同性愛者の)と暮らし始め、愛人である彼に看取られたデュラス。ことし、2016年は、マルグリット・デュラス没後20周年である。知り合いのフランス文学者の方に声をかけていただき、2016年2月、定員20名の小さな記念の集まりのシンポジストをすることになった。デュラスは料理も上手で、自分の得意としていた料理のレシピ集もあり、そのレシピを再現しながら、デュラスの女性性や母性について語る、という、いかにも興味深い企画である。デュラスの一人息子は、そのレシピ集を母の没後、出版しようとしたらしいが、デュラスは版権を息子ではなく38歳年下の愛人、ヤン・アンドレアに譲っていたため、いろいろもめて、すぐには出版できなかった、といういかにもデュラスらしいエピソードに満ちたレシピ集であるらしい。

 デュラスのことをすっかり忘れていたわたしは、2月のシンポジウムにむけて、年末年始、手に入る限りのデュラスの作品を買い求めた。多作なデュラスはそれでも手に入らないものもあり、翻訳されていないものもあって、全てを読めていないが、デュラスに耽溺した日々をすごすことになった。デュラスと「再会」し、なんとも豊かで美しくて、狂った年末年始となった。デュラスは、全ての女が孕んでいるのではないかと思われる、なんともいえない狂気をよびさましていく。

 デュラスの魅力は何よりその"原始性"ともいうべきものにある。通底するのは、アジアの持つ、あのけだるく重く湿った原初の生命のようなかたちである。フランス領インドシナ、今のカンボジア、ベトナム、ラオスを舞台とする、あふれるような水をたたえる大河と、人の生活におしよせる海の潮と、ずっしりと湿り気をふくんだ空気...彼女の作品には、しばしばカンボジアからカルカッタまで400キロを歩く女乞食がでてくるのだが、その女乞食に代表されるような現地の過酷な生き方を間近にしながら、それでも西欧的に生きるしかない、西洋植民者のけだるさ。そのけだるさのなかでさえ、みずからの原初生命を、性や愛にみいだしていく力をもつ、女という存在のわけのわからなさ。文明とよばれるものから、はるか遠くにある、原初の生命の力を、女はどんな状況でもどのような時代でも見いだして行く、ということのおそろしさ。確かに時代と向き合い、政治活動もしている人なのだが、「書く時わたしは全てのイデオロギー、全ての文化的な記憶を忘れる」という、書くことへの原始性、原初性がなんともいえないデュラスの魅力なのだ。

 そういう女としての原初性、のみではない。デュラスのありようは、わたしに「熱帯における白人と呼ばれる人たちのふるまい」について考えさせる。さきほどのカンボジア、トンレサップ湖畔からカルカッタまで400キロを、飢えて身重で歩き続けて子どもを産んで捨てて、という女乞食。この女乞食はデュラスの作品にくりかえしでてくるが、逆に、いわゆる「現地の人」はこの女乞食しか出てこない。代表作「ラマン」の愛人もチャイニーズで、東南アジアのチャイニーズは富を持った人たちだが、植民者ヨーロッパ白人とは違う。デュラスにとって現地の人たちはこのような人々に代表されるいわば、「風景」にすぎない。差別だ、とかそんな話ではない。ただ、そういうものなのだ。

 わたしは「国際協力」の名の下で、長く熱帯で働いてきた。たくさんのヨーロッパの人たちがこの分野で活躍していることも知っているし、個人的にも友人が多い。今そういうことをしている人たちは皆、誠実でもちろん植民者としてではなく、「援助」や「連帯」を掲げて熱帯にでていっているわけで、スタンスは違う。しかしながら、結果として、彼らの多くは彼らが住むべき居住区に住み、彼らの音楽をきいて、彼らのパーティーをして、彼ら同士で愛し合ったり別れたりする。たとえば、熱帯インドシナでくりひろげられる、植民地でも国際協力でもさほどかわらぬ風景。白人と、そして、「現地人」のまったくちがう世界。どちらにも同調できない、植民者としては大失敗と大失態の印象を世界に与えた、わたしたち日本人は、国際協力の現場でも、その狭間で、なんともいえないふしぎな人間関係を白人たちと、あるいは現地の人たちと築き、あるいは、築けないから日本人同士で集まっていたりするのである。乾いたヨーロッパから、湿気の飽和するアジアへ。わたしたちには想像もつかない世界なのではあるまいか。

 デュラスは結果として、自分の物語を語らせる。自分の言葉が湧いてくる。読むことによって自分の物語を語らねばならない、という気にさせる。デュラスはそのテキストから、わたしたち自身にわたしたちの物語を語ることを強いるのだ。そういうものを喚起するデュラスの力こそ、文学の持つ根源的な力である、とあらためて思い知らされる。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

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