おせっかい宣言

第21回 みえているもの(1)

2016.04.06更新

 現実に私たちがみているものが、ほんとうに「現実」なのか。わたしたちの目にただ、見えていないだけ、のものが実はたくさん存在しているのではないだろうか。友人の母は、和歌山の山奥に住んでおり、ちょっと普通の人とはちがう力がある人らしい。和歌山の山奥に何代も続けてすんでおられるというだけで、ただものではない感じがする。実際、その母親どころか、私の友人自身もタダモノではない。

 彼が中学生の頃、ロックミュージックに目覚めた。寝ても覚めてもロックのことを考えていたが、いまから40年くらい前、インターネットもYou tubeもなくて、CDすら存在してなかった頃のことである。好きな音楽を聞くには、ラジオを聞くか、レコードを買うしかない。自分の望むレコードはそんなに簡単には手に入らない。LPレコードというのは本当に値段が高くて、40年前でも2000円以上した。今のCD一枚とほとんど同額なのであって、今の給与水準や物価と比べるといかに高価なものだったかがわかる。友人はビートルズが好きで近所のレコード屋にいっては、そこでかかっているビートルズをうっとりと聞いていたという。やっとのことでお小遣いをためて、2000円ちょっとにぎりしめてレコード屋にあのビートルズのLPください、というとレコード屋のおじさんが、「おまえ、これ半額にしたるわ」といって、店でなんどかかけた見本のレコードを1000円で売ってくれたのだという。何となくいい話だ。その後、彼は、ほしいレコードはたくさんあってもそんなに簡単にレコードが買えるほどお金をためられなかった。所詮中学生の趣味なのである。

 ところが高校生になったある日、道を歩いていると、溝に何か落ちている。拾ってみたら、ローリングストーンズのファーストアルバム「ザ・ローリングストーンズ」だった。ロック少年の歓喜は、親から勘当同然で村を出て、ギター一本でミュージシャン目指して上京させるに十分であったという。ふつう、LP レコードは和歌山の田舎の溝には落ちていない。落ちていれば、それは天啓であり、また、天啓は受けた人のものである。上京してミュージシャンを目指し、様々な活動を何年かしたようだが、プロのミュージシャンになることはけっきょくあきらめ、美容師としての道をえらぶ。十分にカリスマ性の高い美容師になっているが、くだんの「ザ・ローリングストーンズ」は、同居していてのち別れた彼女に持っていかれてしまって、返してくれ、といえなかったため、なくしてしまったのだという。

 そのような天啓を受ける友人の母親であるから、もともとタダモノであるはずもないのだ。いろいろな見えないものが見えたり、祈念したことを起こしたりする能力がある方だそうだ。彼女はある日、かなり大きな白い紙に渦巻き上に細かく般若心経をびっしりと何度も何度も書き続けたもの、を完成した。それが何であるかは私の友人(である彼女の息子)もわたしもわからない。息子は、「曼荼羅のようなもの」だから、と説明を受けていた。黒い文字でびっしりと書き連ねられていたといい、息子も娘(私の友人とその姉)も、それは「白い紙に渦巻き上に書かれた小さな黒い文字の般若心経らしきものによる図柄のようなもの」だと思っていた。そうしか言いようがなかったのである。

ところが彼女の孫にあたる幼い子どもたちとその友人がわいわいとやってきて、彼女の「曼荼羅」をみて、「わー、おばあちゃん、すごいね! 金色だね!」という。孫たちのさわぎをみて、おばあちゃんの息子と娘(私の友人とその姉)は、「あれは白い紙に書かれた黒い文字だよね」と確認した。実際、そのようなものであり、金色ではない。何度みても、白い紙に書かれた黒い文字でしかない。彼らにはそのようにしかみえない。子どもたちに、「あれ、金色なの?」と聞くと、その場にいた全員10歳以下の子どもたちは、みんな、それは金色だった、といったそうである。私の知人は「おそらく子どもたちが正しい」といっていた。天啓を受ける人だから、そういうこともある、とわかる。

 思春期にはいるまえの子どもたちには、私たちよりもずっと世界の本質が実はみえているのではあるまいか。いままでこの世界に存在しているもの、そして存在しなくなったもの、人、動物、そして人のつくりあげた数多の"意識"は、意識として実は存在している、と考えるほうが自然である。まわりがわかってくれないだけで、見える人には見える。しかし、そのような能力は、人間が生殖期に入る頃にはほとんどの人には失われている。生殖という大切な時期をむかえ、現実的に生き、プラクティカルに家庭生活をする、ということは、幼い人を安全に育てる、つまりは種としてのわれわれ人間の未来をつくっていくためにこの近代社会ではとりわけ重要なことなのだろう。見えないものにひとつひとつ心をよせていたりしたら、近代のシステムの中で目の前に出現するあたらしい幼い世代に集中して育てていくことが難しいし、実践的な家庭生活を営むために行う家事や家庭の外の賃労働のことにこんなに熱中できない。

 父の認知症が発覚したのは、「虫」がでてきたからであった。虫がいる、というのだ。まず「虫」がでてきたのは、父の目覚まし時計の中であった。小さな虫が文字盤のあたりからぞろぞろとでてきて、父の時計を狂わせる。いくらふるってもおちてこないという。そのうち部屋のすみとか天井とかにも「虫」は出現し始め、父を悩ませ始める。部屋の中に通信のための線が何本も引かれている、という。レビー小体型、という認知症に特有の幻視、という現象らしいが、父の話を聞いていた私には、本当は父がみている物のほうが実は正しいのではないか、という思いがいつもあった。幼い子どもが幼い頃にはいろいろなものがみえているらしい、ということが、先ほどの金色の曼荼羅の話ではないが、よくわかっていたからだ。

 三歳までの子どもには、母親のおなかのなかにいる妹や弟がよく見えているのだ、というのは幼い子どものいるお母さんからよく聞く話である。上の子が下の子の性別を正しく言い当てたり、おなかの中の赤ちゃんが、こんなこといってるよ、といったりするのはめずらしいことではない。「おなかの赤ちゃんの透視能力」はだいたい普通の人なら3歳くらいで失われてしまうようだが、先ほどの「金色に輝く般若心経」ではないが、10歳になるくらいまでは、子どもたちには私たちに見えていないものがみえるようだ。若者にたむろしてほしくないところで20歳前後の若者くらいまでにしかきこえないモスキート音をつかう、ということもいまだに行われているらしい。人間の感覚は年齢とともになくすものがいろいろある。そのかわりにこの近代的で文化的な大人の世界に適応していくための様々な能力が獲得されていく訳であるが、人生も終盤に近づいたら、近代的文化的能力もあまり重要でなくなってくるかもしれない。それをまた一つずつ手放していけば、失った幼いころの能力が再度獲得されることもないと、どうしていえよう。

 だいたい「虫」というのがくせものである。わたしにはもうひとり和歌山の古い女系家族の末裔、という友人がいる。こういう話は、なぜか和歌山の友人から聞くのだ。和歌山とか三重の山奥で実際にはどういうことが行われてきたか、行われているか、実は私たちは何もわかってはいまい。今や日本の中で、一、二番をあらそう、なんとなく存在感の薄い県になりつつある和歌山、三重だが、もともと霊的な場、人間の修練の場、であったことは、今に残る神社のようすだけでも十二分にうかがえる。友人は、彼女で17代か18代めだったか、とにかく女系家族を継いでいる。彼女には子どもがいないのだが、こういう家系は血縁だけでつながっているわけではないから、そのうち彼女が何らかの形で養女を迎えるのであろうと私は読んでいる。

(つづきます)


  

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

バックナンバー