おせっかい宣言

第31回 的外れ

2016.12.27更新

 もともと、何かおかしい、と思っていたのだ。性教育、という名の下で、主に教えられることが、避妊法や妊娠中絶、であったりすることが多いということが。もちろん望まない妊娠はとても困ったことだし、妊娠中絶は女性の心身に大きな負担を残す。やらなくて済むなら、やらないほうが良いことに決まっているし、望まない妊娠は避けるに越したことはない。それでも、若い人向けの「性教育」と呼ばれる内容の多くが避妊法であり、性感染症の予防であり、妊娠中絶を避けること、などであることはヘンじゃないかな、と思っていたのである。「なるべく妊娠をしないほうが良い」という前に、若い人に向けて先の世代から伝えなければならないことは別にあるのではないか、といつも考えていた。

 そして、ここ数年、それはいっそう顕著になってきたように思う。「どうやったら妊娠しないですむか」ということを説く時代ではなくなってきているのではないのか。私は勤務先の女子大で「国際保健」とか、「健康教育」という講義も担当しており、確かに、避妊や妊娠中絶について語ることも少なくない。現実に、国際保健の文脈で、女性のエンパワメントの一つとしての近代避妊法の普及は開発途上国にとってまだまだ重要なことだ。しかし、このところ話せば話すほど、よその国はともあれ、自分がこの国の実態とは、かなり離れてきていることを話しているのではないのか、という、なんとなくうすら寒い心持ちがしてならない。 

 「避妊法」を語るにあたっては、当然だけど、前提がある。人間は、生殖年齢になると、性行動をしたくなり(要するに体が大人になってくるとみんなセックスをしたくてたまらなくなるものであり)、多くの場合実際にそれなりに相手を探して性行動に及ぶことが多く、そうやって、やり始めると毎日のようにセックスすることも多く、そうやってやりたいからといって毎日のようにセックスをしていると、生殖年齢にある場合、妊娠することが多い。そして、この人間社会にあっては、女性の都合、男性の都合を考えても、いつ妊娠してもかまわないとか、出産してもいい、とか、そういうことになってないこともままあるから、そうならないように、セックスはしても、妊娠しないように「避妊法」を使いましょう、ということになっていたのである。

 WHO(World Health Organization:世界保健機構)の定義などを見ても、「避妊法」には人類がかなり前から使っていたと思われる「ナチュラル避妊法」と、「モダン避妊法」というのが両方あることがわかる。「ナチュラル」な避妊法、というのは、いわゆる「膣外射精」とか、「女性がだいたい最初の生理日から2週間目くらいはセックスを避ける」とか、「おりものが粘っこくなったらセックスしない」とか、「排卵日を女性が気づくようになる」とかそういうものだけど、どれも「完全を期するべき避妊法としては不確定要因が多すぎる」ということは、大人の男女であればよくおわかりであろう。そこで、「モダン」な避妊法が登場する。HIV/AIDS の時代にあっては予防手段として世界が注目し、今もしているものの、常に人気はないというのに、この国では戦後から一貫して避妊法のチャンピオンであった「コンドーム」、とか、世界中の女性が使ってきたのに、日本では認可も遅れ、認可されても女性に人気がない「ピル」、とか、子宮内に挿入するIUD(Intra Uterine Device:日本では「リング」とか呼ばれていたけどやっぱり人気はそうなかった)、とか、「避妊したい時は避妊できるがそうでなければやめられる」という一時的な避妊方法とか、あるいは卵管結紮(けっさつ)とかパイプカットみたいな永久避妊法とか、そういうものが「モダン」な避妊法である。これが世界中で普及されてきたのだ。

 十年暮らしたブラジルでは、何と言っても女性側の永久避妊法である卵管結紮が人気の高い避妊法であった。既婚女性が2〜3人子どもを産んだら、卵管結紮してしまうのである。かの国では、中産階級ほど、帝王切開で子どもを産む人が多い、という歪んだリプロダクティブヘルス状況が広まっていて、帝王切開の「ついで」に卵管結紮を頼んだりするのである。書きながら、なんということであろうか、とあらためて呆れるが、ここで書きたいのはそのことではない。むしろ、ここで書きたいのは、かの国では「既婚女性がもう子どもが欲しくないと思う時は、永久避妊してしまう、というオプションを受け入れるほどに、頻繁にセックスしている」ということである。今さら書くのが恥ずかしいほどに、当たり前のことである。「結婚」というシステムは、今のところ、世界中の人類が制度化した、安定的に恒常的にセックスのパートナーを得るための手段であった。成人男女はセックスしたいものであり、恒常的に誰でもセックスできるほうがいい、そのほうが、人類の暮らしは安定する、とおおよその社会で、前提として、そのように理解されていたのである。

 今回の文章で「前提」という言葉がなんども出てくるが、私が「うすら寒い」思いがした、と先に書いたのは、ここで書いているような「前提」が、この国の現在には当てはまらなくなってきている、と感じるからだ。若い愛し合っている男女は、顔を見ればセックスしたくなるものである、ということが、若者に性教育として避妊法の授業をする前提であったが、最近付き合っている若い男の子と女の子はあんまりセックスしない、という子も少なくないらしい。結婚したばかりの男女は、一緒になれて嬉しいから、朝に晩に毎日セックスして、はっと気づいたら最初の子どもを身ごもっていました、というようなものだと思っていたが、最近では結婚してから、子どもが欲しい時は、排卵日付近に数回セックスをして妊娠しなかったら、不妊外来に相談してしまうらしい(不妊クリニック勤めの方が言っていた)。ましてや、子どもが数人いて、もう子どもはいらないな、と思っているような、結婚してかなりの時間が経つ夫婦が、卵管結紮しなければならなくなるほど毎日セックスしている、というケースは、数えてないけど、あんまりあるまい。ましてや、生殖期を過ぎた夫婦にセックスというオプションは実に稀なことでありそうなのは、50代、60代のママ友同窓会に出てみると、みんな「夫婦別床」か、「夫婦の間に犬または猫が寝ているか」、という話になることからもよくわかる。ああ、セックスレス日本。

 さらに、だいたい、結婚する人、結婚できる人たちがどんどん少なくなっている。皆婚時代の日本にあっては、妙齢の男女が結婚できるように、周囲のおじさんおばさんが相手を探してきていたものだが、そういうシステムはとうに機能せず、結婚は自力で相手を探すことができる人たちだけができる、「高嶺の花」のようになりつつあるのだ。成人男女が目覚めた時、隣に手を伸ばせば誰か寝ている、というようなことは、大変な贅沢になりつつある。インターネットもあるし、夜中にやりたいこと多いし、仕事も忙しいんだから、別にセックスしなくてもいい、とか、つい考えてしまうようになってきているわけである。

 こんな国で、「避妊法」について説くという「的外れ」。私自身が担当する「健康教育」の授業も「国際保健」の授業も、かなり考え直さなければなるまい。その基礎には、「なるべく妊娠出産を避ける」のではなくて、妊娠出産はからだの喜びである、という祝祭としてのメッセージが通底していなければなるまい。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

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