おせっかい宣言

第32回 正月の風景

2017.01.03更新

 年の瀬も押し詰まってくると、母が市場で棒だらを買ってくる。棒だらとは、魚のタラを干したもので、関西のおせち料理の食材である。干した棒だらを水に戻し、甘辛く煮たものをお重に入れる。透明で飴色の棒だらは骨も多いし、食べやすいとはいえないが、私は子どもの頃から好きだった。市場で買ってきたカチカチの棒だらを、水に「かす」。水にかす、は、母がいつもそう言っていた。これは「水につけておく」ことで、食べた後のお茶碗なども、「水にかしといて」と言われて、私は育った。山口県光市が母の実家だから、中国地方の方言なのだろう。母方の親戚は皆、同じように言う。山土県光市には、当時、新日鉄として合併される前の八幡製鉄の工場があり、元海軍関係の人が作った八幡製鉄関連の会社に勤めていた父と出会い、母は、兵庫県西宮市にお嫁に来た。関西のおせち料理に棒だらは、どうしてもなければならないもので、そしてこれだけはなかなか柔らかくならないから、何日も前から準備を始めなければならないものだった。年末になると、台所の隅に、いつも棒だらを水に「かした」ものが置いてあった。

 三十日になると黒豆を煮始める。これも一日前には出来上がっていないと味がよく「しまない」から、と母は言った。「味がしむ」も、おそらくは、関西から中国地方にかけての方言だろう。黒豆の皮が取れたり、しわがよったりしないようにふっくらと炊き上げることが大切で、普段は見ることもない上等の丹波の黒大豆を買ってきて、丁寧に煮ていた。

 三十一日、大晦日の朝は、まず出汁をとることから始まる。鍋いっぱいの水に昆布を入れ、ゆっくり昆布出汁をとった後、かつおぶしを入れて、さらに出汁をとる。その出汁を使って、ひとつずつ根菜を別々に煮ていくのが関西のおせち料理なのだ。人参、蓮根、里芋、しいたけ、こんにゃく、ごぼう、高野豆腐、昆布巻き・・・。どれも別々に煮て、さまして、お重に詰める。棒だらを煮て、ごまめを作って、かまぼこを切る。まなすを作り、数の子は高いものだから、少しだけ用意する。

 西宮の家のお雑煮は、元日が白味噌のお雑煮、二日目が水菜のおすましだった。祖父は西宮の人だが、祖母は大阪の船場の人、このお雑煮が西宮の祖父の家ものなのか、大阪の祖母の家のものなのか、今となってはよくわからないのだが、とにかく我が家のお雑煮はそういうものだった。大晦日にこちらも段取りをすませる。白味噌のお雑煮に入れる、お正月まえにしか売られない細い大根や人参、そしてごぼうと里芋を輪切りにしてあらかじめ茹でておく。元日の朝には出汁にこれらの野菜を入れ、白味噌で味をつけて、丸もちを煮てお雑煮にする。二日目は、おすましで、入っているのは水菜の茹でたものと焼き餅だけ。とてもさっぱりしたお雑煮だった。

 西宮の家では父の両親と同居していたのだが、台所は二つあり、普段の食事は祖父母と、私たちは別に準備して別に食べていた。お正月だけ、これらのおせち料理とお雑煮を持って祖父母の部屋に行き、家族全員でおせち料理を食べる。祖母も母も性格のきつい人だったから、嫁姑の仲は推して知るべしで、普段はできるだけかかわりのないように過ごしているのだけれど、お正月だけはそれなりに家族で穏やかに過ごす。練炭で餅をやき、掘りごたつに入って家族で花札をし、近所の西宮戎神社に初詣に行く。私の姓の「三砂」は、西宮の姓である、といつも祖父から聞かされていた。難しい漢字ではないが、珍しい名前で、あまりきちんと読んでもらえないのだが、西宮には我が家の近所だけにも何軒もあった。祖父によると、西宮戎神社の由来の名前らしいが実際のところはよくわからない。神社の由来、と言っても、何か家系図があったり家の歴史が残っているような立派な家ではないから、どこまで本当で、どこまで誰かの作り話かよくわからないのだ。それでもお正月になると、そんな話もよく、した。

 大晦日は朝から出汁の匂いに包まれる台所で、そんなふうにおせちやお雑煮を料理する母を見ながら過ごしていた。大晦日のお昼は、お重に詰めなかったちょっと形の悪いおせち料理をおかずにして食べるのである。大晦日のその台所の風景を忘れることができないので、母のそばを離れて、自分で家庭を持ってからは、母がやっていたように、大晦日は朝から台所に立つ。沖縄やロンドンやブラジルやいろいろなところに住んできて、今は東京にいるのだが、過去三十年以上、ずっと大晦日はこの風景を繰り返しているので、年末年始に旅行したこともない。外国にいてお重がなくても日本の完璧な食材がなくても、それらしいものは作れるもので、ロンドンにいるときは、チャイナタウンで売っていたタイ産の小さな干魚でごまめを作ったし、ブラジルでは味噌はあるが白味噌がないので、普通の味噌で味付けしたあと、牛乳を入れて白っぽいお雑煮にしたりしていた。そんなサバイバルおせち料理と比べたら、なんでも手に入る今の東京での暮らしは夢のようだ。

 東京なので、棒だらは作らない。三十日に黒豆を煮て、数の子の塩抜きをする。三十一日の朝は、母がやっていたように、朝から鍋いっぱいの出汁をとり、くわい、八つ頭、人参、ごぼう、れんこん、たけのこ、しいたけ、昆布巻き、こんにゃく、高野豆腐をそれぞれ別に煮て、テーブルに山ほどの皿を並べて、冷ます。これでお重が一つ出来上がる。ごまめ、数の子、黒豆、かまぼこ、伊達巻、きんとんと栗の甘露煮で、これでお重がもう一つ。男の子二人を育ててきたし、連れ合いも肉が好きな人だったから、もう一つのお重には、煮豚や、鶏のしぎ焼き、エビ、ブリの照り焼きなど、今どきの男性が好きなものを詰める。これだけ作って、母がやっていたように元日の白味噌のお雑煮の段取りを終えて、一日の料理を終える。

 今はおせち料理はなんでも売っているのに、こんなに自分でいろいろ作ってますって、自慢したいんですか、と言われそうだが、もちろん自慢したいために作っているのではなく、母の風景を繰り返していることが幸せで嬉しいからやっているのだ。年末におせち料理の食材を求めに行けることの幸せ、朝からずっと不特定多数のための山ほどの料理を作ることの幸せ、こういう幸せは、女性の太古の記憶につながっているのではないか、と思える。料理ハイ、というか、食材ハイというか、客を迎える準備のハイ、というかとにかくうれしくて幸せで、要するにこれが「ハレの日」ということなのであろう。同じ日々を繰り返す中で、こういうハレの日の準備こそが、そしておそらく、それは、一人でやることではなくて、家にいる別の女たちと一緒にわいわいとやることだったのに違いない。それはきっとものすごく心踊ることで、私のDNAにはその記憶が刻みつけられているに違いない。

 母の姿を見ていた子どもの私は、母のように大晦日に台所に立つようになり、子どもたちを二人育てた。子どもたちは成人して私の手の内を離れていったし、親も送り、義理の親も送り、連れ合いも送り、私の人生のフェーズはどんどんと移って行く。母の姿が私のうちに残り、私が母と同じように大晦日を過ごしているように、私の姿も子どもたちに記憶されるだろうか。それは、太古につながる喜びの記憶であってほしいと願うばかりなのだが。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

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