おせっかい宣言

第41回 生と死の怖さについて

2017.10.30更新

 連載の第33回で、「家で生まれて、家で死ぬ」ということを書いている。家で産んだり、家で死んだりすることについて、私たちは「圧倒的経験不足」に陥っている、と書いたのだ。

 「生まれること」と「死ぬこと」。人類は数限りなく、このことを経験してきた。近代医療が誰にとっても身近なものとなる前にも、人類は続いていた。人類がここまで滅びることなく続いてきた、ということは、おおよその繰り返される「生まれること」と「死ぬこと」は、それほど「怖いもの」ではなかった、とは言えないだろうか。寂しいこと、ではあったと思う。死ぬことは冷たくなった人ともう話したりふれたり会ったりできないことだから。でも「怖いかどうか」というのはまた違う話だ。「生まれること」と「死ぬこと」がそんなにすべて怖いものであれば、人類はもっと早い段階で、その形を変えていたのではないのだろうか。

 もう20年くらい前の話になるが、地球の裏側で、日本の国際協力のプロジェクトとして「助産婦のいないブラジルに助産婦(という言い方は、当時の言い方)を作る」という仕事をしていた。日本にいたら、助産師はどこの国にでもいると思うかもしれないが、助産師のいない国も結構あるのだ。新大陸、南北アメリカは、人類最初の職業と言われる地域の「産婆」を近代医療の助産師という職種にアップグレードしていかなかった国も多く、ブラジルにも当時、助産師の職業がなかった。そういう国に、助産師という資格を作っていくために、日本の、たくさんの助産師さんにブラジルに来ていただいて、助けてもらった。そのうちの一人がおっしゃったことが今も忘れられない。

 「開発途上国の妊産婦死亡率が高い、と言われていて、その対策もいろいろ考えられているけれど、私は、こんなに妊産婦死亡率が高いのは本当におかしいと思う。ずっと妊娠と出産を見てきたけれど、自然なお産はそんなに危ないものじゃない。もちろん、危ないことはある。それは生きていることそのものが、そうだから。ほとんどのお産は、怖いものじゃないし、何事もなく産める。何かおかしい、と思うことは、ずうっと妊娠期を見ていると、気がつけることは多い。それでも何か危ないことが起こる、ということは否定できないけど、この途上国の妊産婦死亡率の高さは考えられない。みんな、"医療のシステム"とか"病院が足りない"から妊産婦死亡率が高いと思っているけれど、そうではないのではないか。本来は、何でもないお産を、女性に何か理不尽なことをして危なくしているのではないか」。

 そうなのかもしれない。動物としてここまで生き延びた人類のそもそものお産はそれほど危ないもの、ではなかったのかもしれない。途上国では「性器切除」とか「安全ではない中絶」とか「女性の抑圧」とかに始まり、「ちゃんと食べられない」、「内戦状態である」などのように、さまざまに関わる理不尽な女性をめぐる状況が、お産を危なくしているとも言えるだろうし、お産そのものがもともと危なくて、医療がなければ安全にできないものだ、というのではないのかもしれない。もともとそんなに危ないことではなかったお産を、いろいろな社会状況で危なくしてしていって、それを近代医療の力でなんとか、危ないことでなかった頃のレベルに戻そうとしているのが、現在の状況とも、言えるのである。

 ともあれ、生まれること、と死ぬこと、はそんなに怖くはなかったのではないか、というのが、今日の話だ。長く研究してきた、自宅で産むこと、自宅のような雰囲気で産むこと、についての、女性たちや介助者の話を聞いて思うのは、出産とは喜びの体験であり、女性の身体の至福である、ということであり、そのほとんどは怖いことではない、ということだった。本人にとって喜びの経験であるのみでなく、そのようなお産を介助している人にもその喜びは伝わる。開業助産師たちは、そのような経験に立ち会えることで、大きな喜びと励ましを得ているというし、お産に立ち会えるほど素敵なことはないという。(それでもやっていけない助産所も増えていることは、また別の時に話そう。)

 死ぬことも、今は、生活の場にはないから、やっぱり怖いもの、と思ってしまう。近年、自宅で配偶者を看取った。思い起こしてみれば、「怖いこと」はもっと別の時期にあり、死にゆく人に寄り添い、看取ること自体は、怖いことではなかった。正直言って、もっと、怖いことを経験するのではないか、と思っていたが、死にゆく人に寄り添うことは、寂しいけれど、自分自身が励まされるような、穏やかな経験だった。たった、一人を看取っただけだが、開業助産師さんたちの話を思い起こしながら、死もまた、生まれることと同様に、穏やかにその場に立ち会えば、おそろしいものではなく、残った人間に先を行く希望を残してくれるものではないか、と、つらつらと考えた。

 とはいえ、人類は、怖い出産や、怖い死も、もちろん、体験してきたのだ。頻繁にではないにせよ、怖い経験は、あったと思う。確かに。どうしようもない、怖い出産もあっただろうし、苦しむ死にゆく人に何かできないのか、と身悶えする経験もあったことだろう。怖い経験としての出産も死も、確かに経験されてきたと思う。だからこそ、そういう怖い体験によりよく対処しようとして、私たちは、精緻な近代医療や福祉の体系を作り上げてきたのだ。

 緻密な医療の体系は、だから、数少ない、怖い体験のためのものであったはずなのに、いったん体系が出来上がると、私たちの意識は、すべて医療の対象となる「怖い」ところだけに照準を当てるようになってしまう。そうなると、ほとんどの生まれることと死ぬことは、怖くはなかったことは、意識の外に置かれ、忘れられてしまう。「意識の外」に置かれると、わざわざ意識を作り上げないと、取り戻せない。豊穣の経験であること、は、また、作り上げられなければならない、新たな「意識」となってしまうのである。

 「怖い」経験となってしまったことはできるだけ避けたくなる。生と死をあまりに医療の言葉のみで語ることにより、その豊かさを失っている、ということの実態なのではないか。「少子化」ということも、その辺りを考えていかなければ、誰も産みたいと思わないのではないか、と思う。

 医療や福祉の言葉で語り続ける限り、全ての生まれることと死ぬことはリスクへの対処であり、リスクへの対処ということは、大変なこと、難しいことへの対応であり、それは専門職が専門的なトレーニングの元に行う方が良いことであり、「素人」はただ、怖くて、遠ざけたいもので、専門家の助けなしには、立ち行かない、と思わざるを得ないものになる。全ての人が経験するというのに、それで良いのであったのか。何を取り戻せば良いのかさえ、よくわからなくなってしまったが、せめて、「家で生まれて、家で死ぬ」ことの記録は残したい、と思っているのである。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

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