プロに論語

 さて、これから「プロに論語」と題して、さまざまな道のプロの方々と『論語』を肴にいろいろとおしゃべりをしていこうと思っているのですが、今回はイントロということで、なぜ『論語』なのか、それも能楽師である私がなぜ、こんな連載を、ということについてお話しておきたいと思います。

第1回 イントロ・その1

2016.02.17更新

能と『論語』に共通するもの~伝統とつまらなさ

 私の職業は能楽師です。この能と『論語』には共通点があります。

 ひとつは長い期間、「ずっと続いている」ということ、すなわち伝統です。

 『論語』は、孔子(紀元前552-紀元前479)とその高弟たちの言行を、その死後に弟子たちがまとめた書物です。書物として成立したのは孔子が亡くなったおよそ400年後くらいと考えられていますから、孔子が生きた時代から数えると2500年、文献としてまとめられた時期から数えても2000年の時を超えて、人々に語り継がれ、読み継がれています。

 一方、能のほうは、世阿弥(1363-1443)が生まれておよそ650年。世阿弥のお父さんである観阿弥の頃から上演されていますから、こちらは650年以上、なんと一度も途切れずに演じ続けられています。

 ともにとても長い期間、続いているのですが、それだけではありません。もうひとつの共通点は、両方とも「つまらない(と思われている)」ということです。...なんていうと怒る人もいますが、しかし少なくとも多くの人からはそう思われていることは事実です。

 でも、実はこれが大事なのです。「つまらない(と思われている)」のに、なぜこんなに長く続いているのか。それには深い理由と、そして意味があると思うのです。

 私が能を始めたのは20代も後半になってからで、それまでは「あんな辛気臭いもの誰が見るか」と思っていました。また、『論語』だって、やれ「徳」を大事にしろだとか、やれ聖人君子たれとか、「時代錯誤の理想高き堅い道徳書」と、敬して遠ざけていました。

 ところがひょんなことから能を職業にすることになり、本気になって始めてみると、これが深い深い。しかも、深いだけではない。始める前に抱いていたような辛気臭さも、古臭さもない。むろん、だからといって新しいわけではありません。新しいとか古いとか、そういうところを超克した永続的な時間性のようなものが能の中にはあり、だからこそ能はいつの時代においても(むろん現代でも)その生命力と命脈とを保っているのではないかと気づいたのです。

 ならば『論語』にもそれがあるんじゃないか。それがわからないのは自分の読みの問題なのではないか、そう思って、もう一度『論語』に向かってみることにしました。


『論語』を孔子の時代の文字で書き直す

 さて、そう思った途端に出会ったのが聞一多(ぶん・いった)の書です。

 聞一多という人は中国の学者なのですが、本当にマルチな人で、学問をするだけでなく、その考えをもとに古代の劇を復活上演するための台本を作るという劇作家でもあり、また詩人でもあり、さらには画家でもあり、イラストレーターでもあり、書家でもあり、そしてその最期は国民党の特務機関に暗殺されるほどの活動家でもありました。私は聞一多が好きで、よく読んでいたのですが、ちょうど『論語』を読み直そうと思ったときに入手した新版の聞一多全集の中で見た書のひとつが、『論語』を孔子の時代(周の春秋時代)の文字で書いたものでした。


 これは衝撃でした。

 「おお! 確かに孔子の言行は、孔子の時代の文字で書くべきでは」

 そう思って、『論語』を孔子の時代の文字で書き直すという作業をしてみました。孔子の時代の文字というのは「金文(きんぶん)」と呼ばれる青銅器に鋳込まれた文字です。『論語』の本文を、孔子の時代やそれ以前に鋳造された青銅器の銘文で使われている文字や、あるいはその前の時代である殷の「甲骨文字(亀の甲羅や動物の骨に刻まれる)」で書き直してみたのです。

 すると『論語』は、それまでのそれとはまったく違った姿を現し始めました。

 まず気がついたのが、『論語』がきわめて身体的な書物だったということです。『論語』には、身体の一部あるいは全部を表す漢字が多く含まれています。

 たとえば『論語』の巻頭の文字は「学」です。

 現代の「学」の字を見ても、これが身体的な文字であるということには気づきません。そこで、この字を孔子の時代で見てみます。


 すると上にある二つの「」が「手」であり、下の「」が「子ども」の姿形の象形であることが見えてきます。「学」の字の中には「手」と「子どもの姿形」という、二種類(3つ)の身体が含まれています。ちなみに現代の文字で書かれた『論語』に出てくる1200種類ほどの漢字のなかで、身体の一部あるいは全部が含まれている漢字は750種類ほどあります。つまり、『論語』という書物は、およそ62.5%が身体にまつわる言葉で書かれているわけです。

(つづきます)

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

安田登(やすだ・のぼる)

1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた25歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『異界を旅する能ワキという存在』(ちくま文庫)『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』(実業之日本社)、『あわいの力「心の時代」の次を生きる』『イナンナの冥界下り』(ミシマ社)など多数。

あわいの力

イナンナの冥界下り

バックナンバー