プロに論語

『論語』には豊富な引き出しがあり、さまざまな場面に応用することができます。いわく、『論語』とは石油資源のようなもの。それを可能にするのは、『論語』の主人公たる孔子(紀元前552-紀元前479)が、多芸多才なマルチタレントだったからです。
 このたび、「プロに『論語』」と題してさまざまな道のプロの方々と『論語』を語らう連載を始めたのは、多くの引き出しを持つ『論語』を、「資源」として少しでも有効活用するためです。

 連載初回にご登場いただくのは、俳優・お笑いタレント・小説家・作詞家・ラッパーなどとしてマルチな才能を発揮するいとうせいこうさん。孔子の多芸多才ぶりを引き出すのにふさわしい方です。そんないとうさんと、まずは「音楽」をテーマに、『論語』について語らいます。
 孔子が手がけた「音楽」とは、現代のそれとはかなり違う意味合いを持っていたのでした。

(構成:萱原正嗣)

第5回 音楽と論語 いとうせいこうさん(3)

2016.03.16更新

人はなぜ笑うのか

いとういまの話(前回の最後の話)、「樂」が人間より大きなものを呼び出すという話、「笑い」にもつながるなと思いました。霊的なものを「invocate」する、あるいは「invoke」する感覚っていうのは、笑いにもすごく通じる気がします。

安田おお、そうなのですか。それ、面白そう。教えてください。

いとうこれは学生のころから考えていることなんですけど、人が笑うときって、上手なタイミングでその人の記憶を引き出してあげたときであることが多いんです。ボケが何かしたときにツッコミが「なんとかじゃないんだから」って言ったときのその「なんとか」が、観客の頭のなかに入っている記憶を上手に引き出せていると、聞いている人は快感で思わず笑っちゃうっていう感覚が僕のなかにあるんですね。

安田おお、おお!確かに!

いとう「ものまね」も同じだと思うんです。「ものまね」にも面白いものと面白くないものがあるじゃないですか。じゃあ「面白いものまね」は何をしているのかというと、上手な角度から――その角度から、「ものまね」されている対象を見たことはなかったなという角度から――観客の記憶を引き出しているんですね。ただ瓜二つに似せれば面白くなるわけではなくて、見た目の顔は大きく違うのに仕草とか雰囲気が似ていると感じたときに、「ものまね」されている対象のエッセンスみたいなものがうまく引き出されて、それで面白いと思えるんじゃないかというのが持論なんですね。でも、それっていったい何の快感なんだろうというのはずっと疑問で、今年はちょっと芸人たちとその辺のことを探ってみようと思っています。安田さんの「樂」の話を聞いて、「引き出す」ことが人間の根源的な悦楽になっているという思いが強くなりました。


笑いと能に見る「ものまね」の極意

安田おお、そう言われてみれば、確かにそうですね。先ほど(前回)お話したように「學」の字のこの部分( )が、まさに真似です。そして、世阿弥も「ものまね」が大事だと言っています。世阿弥のいう「ものまね」というのは、いまいとうさんが指摘されたように、そっくり真似ることではないんです。そっくり真似るのは「猿真似」で、「ものまね」で重要なことは「もの」を「真似る」ことなんです。「もの」というのは「もののあはれ」の「もの」ですし、「ものおもひ」の「もの」、「もののけ」の「もの」でもあります。つまり、「もの」というのは、「これだ」とはっきり指し示すことはできないけれど、あるものをあるものたらしめている本質みたいなものなんです。

いとう雰囲気というか。

安田そうそう。で、それを真似ることが能で言う「ものまね」です。たとえば能『羽衣』では、ワキである僕の役は漁師なのですが、そのとき着ている装束って、すごく高価なものです。僕は小さな漁村で育ったので、周りは漁師さんばっかり。「板子一枚下は地獄」なんていう小さな舟に乗って漁に出るわけで、そんな高価な着物を着て漁に行く人はいない。これって、そっくり真似るという「猿真似」の観点からすればおおいに間違いなんですけど、「漁師である<こと>」や、「漁師としての<本質>」を真似る「ものまね」では、全然問題ではないんです。能『羽衣』でいえば、疑いなんて全然知らない、純粋無垢な天女に対する存在が漁師です。漁師そのもののリアリティよりも、天女のような非・人間的な存在に対する存在としての漁師が、その装束や能の動きによって、観客の中にある浮かび上がることが大事なのです。リアリズムではなく。

いとうその絶妙さが重要ですよね。老人の「ものまね」をするからって、腰を曲げすぎると臭い芸になってしまって、そうするとあんまり快感が引き出されない。ほんのちょっとおじいさんになっていると、見る人がそのことに気づいたときに、自分のなかの記憶の像と目の前の像が呼び合うというのか、それによって笑う。そういう関係なんじゃないのかなと。そんなことを昔から考えています。世阿弥の「ものまね」の話は僕も前から考えていて、芸事としてのつながりを感じていたんですが、それが孔子ともつながっているのが面白いというか、やっぱりそういうことなんだなという確信が深まりました。


「分けて」「まとめる」人間の根源的な快楽

安田ちょっと本題から離れてもいいですか? 笑いの話で思いついたことがありまして......。

いとう思い出しちゃった(笑)

安田しかも『論語』じゃなくて『古事記』の話なんですが。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れて世界が真っ暗になったときに、天照大神を岩戸のなかから出そうとして、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が神々の前で舞をしますね。それを見た八百萬の神々は笑うんです。それを『古事記』の原文では「高天原動而八百萬神共咲」と書かれていて、「笑う」に「咲」の漢字を当てています。実は「咲」の原義は「わらう」で、「花が咲く」という使い方はむしろ新しいのですが、それでもやはりここでこの字を使うのは面白いと思うのです。「咲く」っていうのは日本古来のやまとことばでは「先っぽ」の「さき」とも同じですから、何かがこう「先っぽに開く」ことが「咲く」であり、つぼみを「裂く」ことが「さく」なんです。「笑う」も柳田國男は「割る」と同じだと言っています。天照大神が岩戸に入ったことで世界に訪れた暗闇を打破する、つまり閉塞状態を「割る」のがこのときの神々の「笑い」だというのが柳田國男の考えですね。

いとうそれはつまり、固定的な状況を壊すということですよね。

安田はい。とくにネガティブなものを「割る」ことに力点があります。

いとう笑いのその力はすごいですよね。

安田引きこもりの子たち対象に能のワークショップを頼まれることがあるのですが、その子たちが引きこもる理由は人それぞれですが、共通しているのは、おそらくこの数日間、声をあげて笑っていないということじゃないかと思うのです。だからまず笑わせるのが大事。それによって今の閉塞状態が壊れて何かが少しずつ動き出します。

いとうその話で、僕もひとつ思いついちゃいました(笑)。中沢新一さんの『チベットのモーツァルト』(講談社学術文庫)に――1980年代初めの論文をまとめた論文集ですが――、チベット仏教の坊主が、雲が「割れる」のを見て呵々大笑したっていう場面の描写があって、僕はよくこの場面を引用します。「割れる」っていうのは「分節化」ですよね。「分節化」でも人は笑うことがあって、論理で上手に分類して分けてあげると笑うんですね。「これとこれはここが違うからこう分かれるよね」と説明すると、「あぁ~、そうそう」って笑いながら納得するんですよ。

安田なるほど~!

いとうでも笑いのきっかけにはもうひとつあって、おそらく一度割れた雲が「合一化」したときも笑うはずなんですよ。論理で「分節化」することと、一度分けたものを混沌とさせてもう一度「合一化」すること、その両方に笑いの契機があるっていうのが僕の考えで、それが根源的な人間の悦楽につながっているんじゃないかと思います。赤ん坊の遊びも言ってみればそういうことですよね。積み木とかブロックを何かの基準で「分け」てみたり、同じ性質で「まとめ」てみたり、そういうことをして大喜びしていますよね。たとえば、赤っぽいものだけを集めて「まとめる」ような遊びをしているときは、それ以外の形とか大きさみたいな部分での「分節」を越えつつ、色の基準で世界を「分けて」もいるわけで、「合一化」と「分節化」を同時にやっているわけですよね。そこに人間の根源的な、それこそ無意識レベルでの悦楽があるんじゃないかと。これまで話してきた、分別をつくる「禮」と、分別をなくす「樂」にもつながってくるんじゃないかと思います。


声と音を聞き分ける理性の力

安田あの、本題からどんどん離れちゃっていいですか(笑)?

いとうどんどん行きましょう。僕もそういう方向に話を展開していますから。

安田今の「分節化」の話すごく面白くて、いまの『古事記』の天岩戸の笑いね。ここにもその「分節化」の話が関係してくるんです。僕たちはいまこうして『論語』の話をしていますが、周りではいろいろな音が鳴っていますよね。空調の音とか外で車が走っている音とか。そういう音が混ざり合っている状態でも会話が成立するのは、僕たちが音を「分節化」して聞き分けているからです。ところが神道祭祀の『大祓』の祝詞(正確には祝詞とはいわないのですが)を読むとね、そういう秩序が地上にもたらされたのは天孫降臨以降で、それまでは岩や草木がみな喋っていたと書いてあるんです。天孫降臨をきっかけに「語問ひし磐根樹根立草の片葉をも語止めて」となります。これによって岩や草の声を聞くのをやめて...

いとう人間の喋る言葉だけを聞こうと。

安田そうそう。それで世界は静かになるんですが、でもこれは草や岩の声が聞こえなくなったということも意味するので、ちょっと残念でもありますね。でも、これこそまさに分別をつくる「禮」の力です。で、この「分節化」が壊れるときが『古事記』のなかで二回あります。神々の世界で分別がなくなり、岩や草木がまた喋り出すときです。その最初がこの天岩戸隠れ。天照大神が岩戸に隠れて闇になったとき、一度は喋るのをやめた万物に宿る神々の声が、「五蝿(さばえ)なす」といって、五月の蝿のようにぶんぶんと聞こえ始めるんです。僕たちも、たとえば夜寝るときのような真っ暗闇に入ると、頭のなかでいろんな声がし始めることがありますでしょ。これも「分節化」が壊れているときだと思うのです。そんな悪しき状況が、天宇受売命が引き起こした笑いによって収まって、もう一度「分節化」を取り戻すんです。

いとう快感によって混沌を止めるということですよね。普通の発想だと、ワイワイガヤガヤうるさいときは、「うるさい」って叱って教育的な方法で止めようとしますが、笑いの快楽によって止めるやり口がありますよね。僕はそれが、沈黙をもたらす望ましい方法だと思っています。


笑いの次元を変える力

安田なるほど!自分が楽しくて笑っているときも、周囲の雑音って気にはなりませんね。
『古事記』のなかで「分節化」が壊れるもう一つの場面は、スサノオの命(みこと)が、亡き母の国に行きたいと泣き散らしたときです。そのときやはり、それまで沈黙していた神々の声が聞こえ始める。神々の国というのは悲しみがない国というか、あってはならない国なんで結局、スサノオは追放されてしまうのですが。

いとう他者が自分のなかに入ってきちゃうということなんでしょうか。笑いには、それを「祓う」効果があるというか、次元を変えちゃう力があるんですね。そういう意味で、笑いは武器にもなりえます。モンティ・パイソンのコントで、読むと必ず死んじゃうジョークというのがあります。第二次大戦中、売れないイギリス人の作家が「世界一面白いジョーク」をつくるところから話は始まります。ところが、そのジョークは面白すぎて、創作者自らが笑い死にしてしまい、それを見た人も次々と同じ目に遭います。その破壊力を聞きつけたイギリス軍が対ドイツ戦の兵器として導入するというコントです。ものすごくブラックなユーモアではあるんですが、そういう破壊力があるという意味では、孔子の「樂」と根源的なところで近い気がします。

安田そう考えると、「笑い」と「樂」の関係性も面白いですね。「樂」は「楽しい」とも読みますが、「周」の時代にはすでに「楽しませる」という意味合いが出てきています。この「金文(青銅器に刻まれた文)」には「我が先祖を楽しませて長命を祈る」とあります。

 楽しませる相手は先祖の霊だったのが、だんだんと、今生きている人たちに変わってくるのがまた面白いところですね。

いとうやっぱり「樂」の対象はもともと先祖だったんですね。芸事の基本は先祖を喜ばせることにあるっていうのは、僕はすごくしっくり来ます。僕も芸人として舞台に立って、いい具合に集中できていると、その場にいる人を笑わせているというよりは、もっと遠くの人を笑わせている感じになるときがごくまれにあるんですね。ご先祖様まではなかなかいかず、いちばん後ろの大向うぐらいが精一杯ではありますけど。客席のいちばん前の人を笑わせているのはあんまり大したことない芸人で、いちばん後ろでつまんなそうに座っている人を笑わせてはじめて、「やった!」という感じがします。大向うをずっと延長していって、そこにいない人、すでにこの世にいない人を喜ばせるという感覚もよく分かります。

安田まさに、「樂」を届かせようとするのは、今ここにはいない人です。そこに届かせるところから、「樂」や芸事は始まったということですね。

いとうでも、「樂」がすごいのは、その呪術性ですよね。笑いはきわめて日常的なこととして起こりますけど、「樂」は天気を変えたり人を死に至らしめたりしてしまうわけですから。

安田しかし、そういう強大な力は、人格の完成とともに身につけなくてはいけない。そういう技術だけを身につけることの危険性も孔子は意識していたと思われますね。

     

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

安田登(やすだ・のぼる)

1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた25歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『異界を旅する能ワキという存在』(ちくま文庫)『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』(実業之日本社)、『あわいの力「心の時代」の次を生きる』『イナンナの冥界下り』(ミシマ社)など多数。

あわいの力

イナンナの冥界下り

バックナンバー