プロに論語

第10回 宗教と論語 釈徹宗さん(1)

2017.09.05更新

論語の成立年代

安田今日は釈先生にお越しいただいたので、『論語』の中の宗教性について、いろいろとお話が伺えればと思っています。
 孔子は葬礼や祖先祭祀をとても大事にしていますし、なんといっても「儒」という漢字自体が「雨乞い師」が原義ですから、現代的な文脈でいえば非常に宗教的な人だったはずなのですが、『論語』の中には宗教的な話題が少ないんです。
 それは、あまりに当たり前だったから書かなかったということと、孔子が宗教的なことを語るのをあまり好まなかったということ、そしてもうひとつは『論語』編纂の過程で、そういう章句が削られた可能性もあるのかなとも思っています。なんといっても孔子一門の言説をもとに、後代「儒教」という、孔子の思想からはだいぶ離れた宗教を成り立たされてしまうくらいですから、もし孔子が宗教的な発言をしていたら、むしろそれは邪魔なわけです(笑)。
『論語』は孔子の同時代に書かれたのではなく、それから数百年経ってから文字化されたのではないかと言われていて、現存する最古の『論語』は漢の時代のものといわれています。そして、その前の秦の始皇帝の焚書坑儒では、儒教関係の書物は「易」を除いて全て焼かれてしまったといわれていますし、現存する『論語』が孔子自身の発言をどのくらい正確に伝えているかは、さまざまな研究はありますが、よくわかってはいません。

たとえば、口伝で伝わってきた部分もあって、それがその後、数百年経って文字化されたという可能性もあるわけですか。

安田はい。孔子の時代にはすでに文字があるので、一度は書かれた可能性もあると思うのですが、口伝の可能性もとても高いと思います。

では、その時点で原義からはかなり変質していることもあり得ますね。

安田はい。文字化の時点で


暗誦文化のすごさ

仏教の場合は、当初、意図的に文字化しなかったようです。なにしろインドの口伝というのはけっこう正確に残るんです。暗記大国でして、抑揚をつけて、韻を踏んで、何百年も正確に伝承していきます。むしろ文字にしてからの方がいろいろと変節したらしくて。

安田おお、そうなのですか。

文字にするよりも、口伝のほうがきちんと残る場合もあると考える学者もいるぐらいです。インドでは、今でも九九をものすごいケタまで暗記するようです。彼らの暗唱文化は、我々の想像を超えるものがあるのかもしれません。


口伝が文字になるときに変えられてしまう

安田そういう意味では仏典の継承というのは信じられるものなのですね。『論語』に関していうと、中国語は一語一音節なので、同音異義語が非常に多くて、かりに正しく暗唱されていても、それを文字化するときに変わってしまう可能性があります。しかも漢代は、孔子の時代に比べると漢字の数がとても増えているので、無意識のうちにわかりやすい、意味が通じやすい文字に変えられてしまった可能性もあると思います。

なるほど、言語の特性の問題なのですね。

安田はい。また、暗唱する人と筆記する人との関係性でも変わってしまう可能性もあります。金田一京助先生が、アイヌの方の伝承を記録されていますが、語りを聞きながら、「さて、これから記録するぞ」となった途端に語り手の語りが変わってしまったと書かれています。

観察者が影響を与えてしまうわけか。


太安万侶の大ヒット1、黄泉の平坂

安田また、恣意的に変えるということもあると思います。『論語』の話からちょっと離れますが、『古事記』を読むと、太安万侶の漢字の使い方というのが、かなり怪しいというか、恣意的というか...。

どういうことでしょうか。たとえば?

安田いくつかありますが、特に重要だと思うのは「黄泉」と「故(かれ)」と「死ぬ」の3つです。
まず死者の行く世界を意味する「黄泉」ですが、『古事記』を口誦した稗田阿礼は、これを「よみ」と発音しました(古代音は現代音とはちょっと違うようなのですが、今回はそこには触れません)。
で、この「よみ」との境界は「よもつひらさか」と書かれています。「よもつひらさか」の「ひら」は「平ら」で、「さか」はスロープの坂ではなくて「境」です。

生と死の境界ですね。

安田はい。...となると「ひらさか」というのは「平らな所にある境界」という意味になります。すなわち死者の行く世界である「よみ」というのは、この世界の水平線上にある境界のあちら側ということになります。

垂直方向や上下関係じゃなくって、同一平面上にある...。

安田はい、そうです。ところが、これに「黄泉」という文字を当てはめると、それは突然地下の世界になってしまうのです。この「黄泉」という文字は、中国の五経のひとつである『春秋』の伝のひとつである『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』」に載る言葉なのですが、そこでは地下の隧道(トンネル)にある黄色い泉というふうに書かれています。太安万侶は、「よみ」に「黄泉」を当てることによって、死後の国というのは地下にあるというイメージを古代の日本人に与えようとしたんじゃないかと思うのです。
 当時の日本人でも、漢字を知っている人や『春秋左氏伝』を読んでいる人は、この当て字は変だと思ったはずなんです。でも、知らない人の方がずっと多いので、そのまま受け入れてしまって、いつのまにか冥界は地下というイメージが一般化していったんじゃないかと...。

古代の日本人の異界観は、水平面でとらえていたみたいですね。この道をずっと行った先にあるとか、海の向こうとか、山の中とか。

安田そうなんです。いまも黄泉平坂がありますが、そこは決して地下ではありませんし(笑)。

そうみたいですね。この前テレビを観ていたら、日本神話の里が紹介されていました。それで、「あそこが高天原です」とか言って、そこらあたりの山のふもとを指すんですよ。

安田「原」ですもんね(笑)。農耕を知らなかった原日本人に対して、農耕を知る渡来人系が高天原の人たちともいいますしね。


太安万侶の大ヒット2、「死」

安田太安万侶の恣意的な当て字で、現代にまで影響を与えているのは「死ぬ」です。これは大ヒット。ほんと、この人、頭いいです(笑)。

「死」は、太安万侶の手による用語なんですか?!

安田あ、おそらくですが(笑)。稗田阿礼が「しぬ」といったの、太安万侶が「死ぬ」という漢字を当てたんじゃないかと思います。これは当て字なのですが、現代人の僕たちですら「しぬ」の「し」は「死」の「シ」だと思っていて、これが当て字だということに普段は気づきません。僕たちも「しぬ」というのは「死」という状態になること、すなわち「しぬ」は「死」の動詞形だと思ってしまっています。でも、「死」の動詞形は「死ぬ」にはなりません。というのは「死」という漢字は「訓」がなくて「音(おん)」だけの漢字です。音だけの漢字を動詞にする場合はサ変動詞を付けます。「愛す」とか「感ず」とか。ですから「死す」になるはずで、「死ぬ」にはならない。
 ところが「しぬ」の「し」が「死(シ)」とすごく音が似ているために、太安万侶は「しぬ」に「死ぬ」という漢字をあててしまった。もともと「しぬ」というのは「萎(し)ぬ」で「しなしな」、「しなびる」という状態です。

そうか、「萎ぬ」ですか。

安田はい。で、この反対が「い(活)く」。植物がしなしなになっても、水をかけると活き活きとなる。それが「い(活)く」です。ですから、「しぬ(萎ぬ)」というのは、また「活(い)く」という状態になるかもしれない。永続的な死ではなく...。

一時的な状態なんですね。

安田はい、そうです。それに対して「死」という漢字は、ちょっと昔の漢字で書いてみますね。



「死」という字は、跪座した人(左)が骨(右)を拝んでいる姿です。白骨を拝むのですから、「死」という漢字はもう生き返ることもないし、肉体を持つこともない。そんな永続的な死をいいます。
 当時の人は「しぬ」に当てられた「死」の意味を知ったら変だと思ったはずなのです。だって、伊邪那岐命(イザナキノミコト)は、肉体のままあっちに行って、また肉体のまま戻って来ているわけですから。白骨にならずに。

そうですね。

安田「よみ」というのは、肉体と別のところにあるんじゃなくて、行って帰ってこれる場所だったはずなんです。
 でも、僕たちもですが、日本人もいつの間にか、「死ぬ」というのは、一回死んだらおしまいというイメージを持っている。それはこれによって植え付けられたんです。

もともとは、死(萎)の世界と死(萎)の現象、そして白骨化と、それぞれに異なる面があったわけですね。でも「死ぬ」という言葉によって、それが大きく変わった。


日本人の古来の死生観

でも、この列島に暮らす人たちの、生と死の感覚は、異界へ行っても時々戻ってくるような来世のストーリー・生命のストーリーを持っていたと思います。かなり古代から。

安田はい。

しかも、その後、仏教やキリスト教などの強烈な来世のストーリーがやってきても、なかなかそこは壊れない。

安田そうですねえ。はい。

沿岸部で暮してきた人々は、海の向こうに異界を感じてきた。内陸部で暮らしてきた人々は、山中に異界を感じてきた。生者と死者との間に、何らかの境界はあるものの、「地続き」という感性を育んできた。

安田そうですね、ええ。

仏教ほどよくできた体系がやってきても壊れなかったのですから、これは相当、根強い死生観でしょうね。


太安万侶の大ヒット3、「故(かれ)」と因果律

安田先ほど太安万侶の恣意的な当て字が3つあると申し上げましたが、最後のひとつは「かれ(故)」です。これは、本居宣長も指摘しているのですが、『古事記』の「故」の使い方が変なのです。
「故」は、英語では'therefore'とか'because'になりますが、『古事記』の中ではかなり多くが'and'という意味で使われています。

そうなんですか。

安田はい。たとえば次のような文章があります。

************
其の大后(おほきさき)、息長帶(おきながたらし)日賣(ひめ)の命は、當時(そのかみ)神を歸(よ)せたまふ。故、天皇(すめらみこと)、筑紫の訶志比(かしひ)の宮に坐(いま)して、熊曾の國を擊たんとしたまふ時に、天皇、御琴を控(ひ)かして、建內宿禰の大臣(おほおみ)沙庭に居、神の命を請ふ。
***********

その皇后、息長帯日売命は、当時、帰神(神懸りして神と一体化する)をされた。そのとき、天皇は筑紫の香椎宮においでになり、熊曽国を討とうとなさった時に、天皇は御琴をお弾きになって、建内宿祢大臣は祭場におり、神託をお求めになった。



「故」は、すべてが「and」ではなく、「and」でも「because」でもどちらでもいいというところが多いのです。で、そういう目で『古事記』を読み直してみると、どうも古事記神話を伝えた人たちには'because'という考え方自体が、すなわち「因果論」というものがなかったんじゃないかと思えるのです。

なるほど...。


古事記を伝えた海洋民族の特徴

安田農耕を知る以前の原日本人は大きく2種類の人たちがいたと思うのです。ひとつは海洋民族、もうひとつは山岳民族。『古事記』に出てくる海幸彦と山幸ですね。稲作をした高天原系の人たちは支配者なので、芸能や誦習には関わらなかった。で、実は僕の実家は海洋民族系というか、海の近くなんですね。

安田先生は確か千葉ですよね。

安田はい。銚子です。しかもウチは、海鹿島(あしかじま)という小さい漁村で、男はふつう漁師になります。だからか、子供のころ、大きくなったら何になりたいか、って訊かれた記憶がないんです。

ほお。

安田みんな漁師になるので、その質問は愚問なのです(笑)。
だから、学校の勉強もそうですが、あまり努力ということをしません。


海洋民族には敬語がない

そういえば大阪の名物編集者・江弘毅さんも岸和田の海民系の人たちの中で生まれ育ったのですが、地元には「敬語がない」っていうんですよ。

安田あ、ないです、ないです。

やはりそうなんですか?! 船を操作するときは、そもそもかなり厳密に役割が決まってるんで、ことさら敬語で区分けしなくても、生き方そのものに役割分担があって、上下関係はある。それに荒海の中で船を動かしている最中、敬語など使っていられない。短い言葉で強く伝える。そうでないと船は動かない。岸和田といえば「だんじり」が有名ですが、だんじりを曳くのはほとんど操船技術と同じだそうです。

安田ああ、そうですか。あ、だからあんなふうに...。

確かによく見ると岸和田のだんじりは船の形態になっています。船を丘に上げて、引っ張りまわしているようなもので。そして、海民系の祭りなので、やっぱり細かく分業制になっていて。上下関係がきちんとしているのは、もう当たり前のことで。とくに敬語は必要ないんだというんですよね。ほんとかどうか知りませんけど(笑)。

安田いや、それ、たぶん本当です。僕たちも中学になると敬語を学ぶんです。

そうなんですね。

安田ところが使う機会がないから、全然定着しないです。結局、「です」を付ければ、はい敬語ってことになるんです。「知りません」ではなくて「知んねえですよ」って (笑)。それから、うちの近くは男子も女子も、一人称は「おれ」だけ。英語みたいでしょ。いまは違いますが、75年とか80年くらいまでは、まだ女子も「おれ」を使っていました。

あはは。


海民には因果律がない?

安田海洋民族って畑に苗を播きませんでしょ。しかも、昔の漁師は船も小さくて、だいたいが一人か二人で、手漕ぎで行く伝馬船...。そんな生活をしていると、「こうするとこうなる」という未来のために、いま何をするということをあまり気にしないんじゃないかと思うのです。

つまり、農耕のように「種をまけば花が咲き、実がなる」といった感覚ではなく、「恵みがやってくるタイミング」のような感性が発達するというわけでしょうか。

安田そうです。

なるほどなあ...。たしかに農耕民とは肌感覚が異なるでしょうね。

安田ですから、「浦の苫屋」という言葉がピッタリで、僕が小さいころまでは、みんなバラックのような家に住んでいました。


仏教伝来に古事記が果たした役割

仏教は「縁起」という独特の因果律に立つところに最大の特徴があって、世界中、どれほどたくさんの宗派があっても、ここに立たないものはありません。ここに立たないと、仏教じゃないんです。しかし、海民の感性が豊かな日本では、仏教の因果律も変質するのかもしれませんね。

安田因果律的な考え方は、最初は全然理解されなかったんじゃないでしょうか。僕は詳しいことは知りませんが、仏教は聖徳太子のときにはありましたでしょう?

はい。

安田『三経義疏』を書かれていますものね。でも、高校時代に勉強したくらいで止まっている素人としては、仏教がバーンと広まったのは奈良仏教からというイメージがあって...。
これってまさに『古事記(712年)』のあとあたりなんです。行基が大仏建立に協力するのが741年で、国分寺も741年ですから。

そうです。

安田太安万侶の3つの当て字の最初の「黄泉(よみ)」は、死後の世界が地下にあるというイメージを与え、それは地獄の思想につながります。そして、そのためにはそもそも「死」がなければダメなので、「しぬ」に「死」を当てて恒久的な「死」を導入する。さらに「かれ」に「故」という字を当てることによって因果論も与える。この三つって、仏教布教のために、すごく重要な文字使いじゃないかと思ったのです。


仏教が日本に因果律をもたらした?

仏教が説く因果を表す言葉に、「これあるによりて、かれあり。これ生ずればかれ生ず。
これなきによりてかれなし。これ滅すればかれ滅す」というのがあります。「これ」と「あれ」の因果関係ですね。しかし、日本語はもともと「かれ」の使い方が違ったわけですか?

安田いえ。そういう使い方もありますが...。

原因と結果としての使い方もあるんですね。

安田はい。でも、現代から見ると原因と結果のように見えるのですが、ひょっとしたら当時の人はそれを原因・結果と考えなかったかもしれないなとも思います。小さい子は、何か話すときに、原因・結果ではなくて「何とかでね、何とかでね、何とか何とかね...」という風に「and」、「and」で話すでしょ。ですから古代人の感覚としては、そんな感じだったんじゃないかと思うですね。

そういうことか。それに気づいた本居宣長は、「故」を 'because ' として使っていないことを指摘した。

安田はい。『古事記』の中の「故」は、この字の意味(because)ではなく、ただ次の語を発(おこ)す言葉として、本当だったら「於是(ここに=and)」というべきところに、この「故」を使っていることが非常に多いと、『古事記伝』の訓法のところに書いています。ただ、本居宣長はそれに対して疑問は呈しているし、それからちょっと説明はしているのですが、それがなぜ「故」がその意味に使われているのかの説明にはなっていず、結局、解決はせずに終わっちゃっているのですが(笑)。

そうなると、日本における厳密な因果律の世界観や思考は、仏教の影響があるのかもしれませんね。

安田そうだと思います。

九世紀あたりに成立した『日本霊異記』なんかは、やたらと因果律を強調するんです。

安田そうなのですか。

はい。そこに説かれているのは、善因楽果、悪因苦果です。つまり善い行いをすれば良い結果がもたらされる、悪い行いはその報いを受ける、このことを繰り返し語っています。おそらく、作者の景戒をはじめとして、仏僧たちはこのことを説法で説いたのでしょう。それが書籍として残ったわけです。しかし、それだけ強調しなきゃいけないということは、因果律的なものの見方があまり発達していなかったことの裏返しとも言えそうです。
 仏教がもたらした因縁(因果・縁起)思想は、当時の人にとっては新しい世界観がやってきたといった感じだったことでしょう。この世界のあり方を説明してくれる新しい思想です。

安田そうですね、きっと。


CNNに伝わらなかった仏教の因果律

東日本大震災のときに、CNNから取材がきたんです。宗教者はこの事態はどう考えるのかということでした。どうやら、いろんな宗教者に取材しているようでして。あとでその報道を見たら、キリスト教神学者や、ユダヤ教のラビや、イスラムのイマームにも訊いていました。これらの宗教者は、基本的には「神のみこころはわからない」と答えていました。

安田あー...。

つまり、CNNは「なぜ神はこのような事態を起こしたのか」と尋ねたわけです。それに対して、いずれの宗教者も「神のみこころは私にはわからない」と言う。これは、絶対なる神を立てる宗教におけるもっとも誠実な態度だと思いました。確かそのときのローマ教皇も、同様に答えていたように思います。

安田ローマ教皇もですか。

むしろ「神はこれこれこういうわけで大震災を起こした」などと言う人がいれば、とても傲慢な話ですよね。だから、みなさんそのように答えていました。そして、「神のみこころは我々にはわからない。でも、間違いなく言えることは、今、東北で苦しんでる人たちと共に神はある」と語っていました。とても誠実な応答です。
それで、わたしにも「なぜ神はこんな事態を起こしたんだと思いますか?」と尋ねるんですよ。だから、「いや、仏教ではそんなふうに考えないんです」と言いました。そうしたら「えーっ!?」と、とてもびっくりしてるんですよ。

安田(笑)

宗教というものは、絶対なる神を中心とした構造になっていると思いこんでいるんですね。私は、「仏教は、神の意志によって世界がクリエイトされてると考えずに、縁起という因果律に立ちます」と応えました。すべての存在も現象も関係性によって一時的に成り立っている、それが仏教の立場です、といった説明を一生懸命にするのですが、いっこうに通じないんです。何を言っているのかさっぱりわからんといった感じで。もうちょっと勉強してから取材に来いと、だんだん腹が立ってきて(笑)。

安田はっはっはっは!

いろいろたとえ話を駆使してみたのですが、いまいちうまく伝わらないんですね。相手の「宗教=神」というイメージが強くて。

安田ああ、なるほどなるほど。

「世界は神の意志で成立している」とするのが宗教だと思い込んでる。もうしょうがないので、「まあ、たとえば今回の地震は、北アメリカプレートと太平洋プレートのせめぎあいで起こったわけでしょう?」と言ったんですね。「そういうふうに原因と結果で、仏教は考えるんだ」と説明したわけです。そうしたら、あとで報道を見ると、「仏教では今回の地震は北アメリカプレートと太平洋プレートのせいだと考える」となっていました。世界の仏教徒に申し訳なくて......。

(一同爆笑)

つまり因果律の立場に立つ宗教は、世界的に見ればマイノリティなんですね。なにしろ世界の過半数を占めるキリスト教・イスラムは因果律に立たないのですから。神への信仰を軸とした宗教と、修練による自己変貌を軸とする宗教との違いでもあります。ただ、仏教もけっして科学的態度を目指しているわけではありません。自分の執着を捨てるために、縁起という因果論を展開したのです。

安田あ、なるほどね。なるほど、なるほど。


宗教の信仰と知性・理性の関係

ただ、信仰のためには知性・理性は邪魔なんだというタイプの宗教に対して、仏教は知性・理性がひとつの信仰のあり方だというところがあります。仏教では、物事を明らかに見ていくことを目指します。また仏教では、教えを自分で受けとめて、納得している姿が「信じる」ということだと考えるんです。そのあたりは独特のところがあります。

安田『論語』の中の「知」は、いま僕たちがイメージするような知性や理性とは違います。そういう意味では知性や理性の話はあまり出てきませんね。でも、後年、朱子の「格物致知」の思想を生み出すような素地は儒教の中にもありますね。

はい、「格物致知」、そうですね。


儒教は果たして宗教・信仰なのか?

儒教で「信仰のあり方」を問題にすれば、やっぱり「礼」ということになるんでしょうか。

安田今回、釈先生と『論語』における宗教の話をさせていただこうと思って『論語』を漁ったのですが、あまりないのです、もろ宗教的な話が。でも、イエスも本人は、あまり宗教っぽくなかったんじゃないかなと...。パウロがいたからすごく宗教的になったんじゃないかと...。

それはあるかもしれませんね。

安田『論語』の時代には、まだあんまり宗教化されてないのかもしれません。

現代人が考えるような宗教という枠組みには、当てはまらないとは思いますね。


中国で因果律が生まれたとき。大盂鼎

安田仏教でも大切だとおっしゃられた因果論ですが、因果論が「この時点でできた」というのが中国では割合はっきりとわかるのです。

そうなんですか。それはぜひご教示ください。

安田前回、細野さんのときにもご紹介した紀元前千年ぐらいの『大盂鼎(だいうてい)』という青銅器の銘文が、現在発掘されている限りでは「因果論」の初出です。これ以前の青銅器の銘文や甲骨の中には因果論はありません。紀元前千年ぐらいの『大盂鼎』において、突如として因果論が出現します。あ、ちなみにこれは僕が因果論と呼んでいるだけなんで、本当に因果論といっていいかはどうかわからないんですが(笑)。

はい(笑)。


周の3代目の王様・康王の時代、周の正当性のために論理が生まれた?

安田因果論は周王朝の歴史の中で必然的に生まれたというか、必要があって生み出されたものだと思うのです。『大盂鼎』が作られたのは、西周になってから三代目の康王(こうおう)の時代です。

聞いたことあります。

安田はい。三代目というのは、どこから数えるかということもありますが、これは西周になってからの三代目、武王(ぶおう)、成王(せいおう)、康王という数え方。でも、この前には文王(ぶんおう)がいますから、そこから数えると四代目です。
 三代目、四代目の頃というのは新・王朝にとっては一番不安定な時期です。周が倒したのは殷帝国という強大な王朝ですし、最後の殷の王は紂(ちゅう)王というカリスマ王です。殷に対して親しみを感じていた諸侯も多いし、殷の残党も多い。周にも武王というカリスマがいたから殷帝国を倒すことはできましたが、それでも最初の頃の周の屋台骨はまだまだグラグラです。そんなとき、周の武王というカリスマが亡くなる。次の成王は幼かったので、これを周公旦(しゅうこう たん)が補佐しました。周公旦は、武王の弟でもあり、かつ孔子が夢に見たというほどの、これまた別な意味でのカリスマです。偉大なるナンバー2ですね。ところが、次の康王になると、その周公旦も亡くなってしまいます。

武王や周公旦などの強力なリーダーがいなくなるのですね。

安田ここら辺って家康(武王)、秀忠(成王)を経て、家光になった頃に似ています。江戸幕府もこのころが一番危ない。康王は殷のシンパたちの力を抑えながら、周のこれからの礎も築かなければならない。そこで取ったのがまずは力による威嚇です。召公奭や畢公高らの補佐を得て、外征を繰り返して周の威を四方に示しました。しかし、その一方で理論的というかシステム的にも周王朝を強固なものにしようとした。そこで生み出されたのが「因果論」だと思うのです。
 周王朝の正当性を「理由」によって示そうとしました。なぜ周が正統なのか、ということを「理由」によって説明しようとする論法は、今では当たり前すぎるほど当然なのですが、この時代までそのような論法が現れていません。考えてみれば、小さい子どもはそういうことをしません。この「理由」によって何かを説明するというのは、生得的なものではなく、学習によって身につけることで、しかも実はかなり高度なことなのです。
で、『大盂鼎』の銘文に書かれるのは、周王朝が正統である理由は二つあると。まず、殷の人々が、酒が飲みすぎて、常に酩酊状態だったから。これがひとつ。ふたつめは、周の文王に天命が下ったからだと。

常に酩酊状態って(笑)、なんか変な理由ですね。それと天命ですか。

安田 はい。この2つの理由によって、周は正統であると説明するのですが、そのときに「故」という文字を使います。あ、実は康王の時代には、まだ「故」という字はなくて「古」という字を使っています。ちょっと書いてみますね。



で、この字を中心にして次のように論じています。



「A(殷の酒)」と「B(周の天命)」、<故に>いま周が王権を執っていると、こういう論法です。

で、「故」のもとの「古」は、もちろん「古い」=過去のことをいう字ですが、「古」を四角で囲むと「固」という字にもなります。これが「古」のもとという説もありますが、固くて「変化しない」、それが過去であり、「古」なのです。

「変化しないもの」が過去ですか。

安田はい。この字は兜の象形だとか、あるいは神の言葉を固く鎖したものとか、いろいろ説はありますが、固くて変化しないものというのは共通しています。

殷の人々の酩酊と文王への天命降臨という2つの変化しないこと(過去)によって、未来が決まった、そう書くのが『大盂鼎』で、これが因果論の初出だと僕は思っています。それまでは、このような論法は存在しませんし...。

殷から周へ、「帝」から「天」へ。

今お話に出た「天命」は大きな宗教的要素でしょう。「天」は、儒教にとって中軸となる理念ですが、これは「この世界には人間を超える意思や原理があって、見える世界は見えない世界の原理によって成り立っている」というものだと言えるでしょう。それは、広い意味での宗教であると考えていいんじゃないかと思います。

安田そうですよね。はい。

思いきって言ってしまうと、「天」を軸とした一神教であるとさえ考えることができる。

安田確かに今は「天」というと一神教的なイメージがありますが、最初はちょっと違っていました。一神教的な神であった殷の「帝」に対する新しい概念として登場したのが「天」だったのです。

「帝」が先行していたのですか。

安田はい。「帝」は「上帝」とも呼ばれていたのですが、殷の時代には、この「帝(上帝)」を中心として、さまざまな神々がいるパンテオンがあったようなのです。で、その神々にも序列があって、一番偉いのが「先公神」と呼ばれる殷の先祖神や、婚姻関係にあった族の先祖神で。そのほかにも殷の従属した民族の先祖神もいて、それらは「族神」と呼ばれています。また、殷よりも前の宗教形態の継承である巫術者の操る神々は「巫先」と呼ばれていましたし、日や月、あるいは星や雲の神々は「天神」と呼ばれていました。

そして、その最高神である「帝」を殷の時代の甲骨文字で書くとこうなります。



安田この「帝」という字は「すごく大きな生贄台」という意味です。この中の部分だけで、生贄を載せる台になります。その上に生贄を乗せて、こう血が垂れると、これ示偏(しめすへん)になります。生贄を捧げて祈る対象が「帝」です。



うんうん。

安田殷の甲骨文などを読むと、この生贄には人間も使われていますが、周になると、この生贄から脱しようと思うようになってきます。そこで「帝」に取って代わるのが「天」です。「天」というのは『大盂鼎』の文字ではこうで、人の頭部を強調した形です。



「天」というのは、外部にあった超越者が自分の内部に入ってきたことをあらわす文字だと思うのですが、しかしそれでも、今までの宗教習慣から脱け出すのはおそらくとても大変で、それを完成させたのが先ほども出てきた周公旦だったのではないかと...。

すごい、周公旦。

安田さすが孔子があこがれただけのことはある人物です。五経の『尚書(書経)』の中に『金滕書(きんとうしょ:周書)』という一編があるのですが、そこに例のカリスマ武王が死の病を得たときのことが書かれています。まだ周初の不安定な時期ですから、ここで武王に死なれたら大変です。そこで太公望たちは今までの方法、すなわち生贄的な方法でなんとかしようとするのですが、周公旦はそれを止めて、かわりに祝詞のような祝祷で武王の命を助けるんです。

それは宗教体系を構築するような作業です。しかもとても官僚的な手法だ。

安田生贄を奉げて、あとは超越者に任せるのではなく、自分の意思を祝詞として宣る。このとき、外部にいた「帝」は内面化されて「天」になり、超越者も自分自身として身体化されたと思うのです。ところが、やはりこれは長く続きませんでした。

あれ? 続かなかったんですか。

安田はい(笑)。金文などを見ると周の初めくらいは、そんな感じもあったのですが、その後に「天」は自分の内部から追い出されて、中空にまします超越的絶対者に帰ってしまうんです。そのときには上帝パンテオンも消失してしまって、釈先生がおっしゃったように唯一絶対神的な存在になってしまいます。

(つづきます)

    

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安田登(やすだ・のぼる)

1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた25歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『異界を旅する能ワキという存在』(ちくま文庫)『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』(実業之日本社)、『あわいの力「心の時代」の次を生きる』『イナンナの冥界下り』(ミシマ社)など多数。

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