プロに論語

第13回 宗教と論語 釈徹宗さん(4)

2017.09.08更新

住空間の様式性、家具文化と建具文化

服装の宗教性ひとつとっても、いろいろあります。宗教といえば、○○教や××宗の信仰などとイメージされがちですが、思想や文化はもちろんのこと、政治・経済・法律・衣食住など広範囲にわたる総合的な体系です。それぞれのコンテクスト(文脈)によってかなり様相が異なるので、宗教全般を言い表すことはできません。
 それで、もちろん「食」に関する宗教性もあるわけでして。食の方はいかがでしょうか。

安田はい。『儀礼(ぎらい)』という本のなかでも、食はとても丁寧に扱われていて、何の儀礼のときにはどのようなものを並べるかということが詳細に書かれています。

先ほども、料理人がとても重要なポジションであるといったお話がありましたね。
では、「住」はいかがですか。たとえば、家に火災除けや魔除けのデザインが施されるなどは、多くの文化圏で見ることができます。日本家屋にもあります。
 日本の家に仏壇や神棚があるのは大きな特徴ですね。かつての日本の家だと、いちばん風通しとか日当たりがいいところに仏間を設けていました。家の設計を、まず仏間はどこにするか、から始めたりしていたんですよ。仏間や座敷中心の家(笑)。それで居間や台所はけっこう薄暗くてジメジメしたところなってしまったりして。

安田なるほど~ (笑)。

現代人はそんなことはしませんけども、今でもそういう住環境のお宅はかなりあります。伝統的な建築法が盛んな地域へ行くと、そんな感じですよ。昔と違って、居間やキッチンは便利よくなっていますが。
 それに、部屋と部屋の仕切りが、壁じゃなくて建具でしょう。そういった住空間の特性と、そこに暮らす人たちの感性は関係すると思います。建具で仕切ると、風通しもいいでしょう。風土や気候の問題もありますね。そして、取り外しができるので、時には大広間として使うことも可能。親類が大勢集まったりするので、そういう空間が必要なんですね。法事や結婚式も、かつては自宅の座敷ですから。

安田出雲の旧家で現代美術の人とインスタレーションをしたことがあるのですが、ふすまを閉めたり、開けたりするだけで、部屋の感じが全然違って、美術家の人に先導されているお客さんは、まるで迷宮の中に投げ込まれたように感じになるようです。これも壁がないからこそですね。

内部と外部の仕切りがあいまいなんですよ、壁に比べて。また、壁中心の住環境の方が、家具のデザインが発達するそうです。壁を彩るために、家具のデザインや、壁に掛ける絵画などが必要になる。一方、建具で仕切る家は、建具そのものが意匠になります。季節によって建具を変えたり、襖絵や欄間などをほどこしたり、そちらの方へと発達するんですね。


声明の発声が建物に合っていく

この住環境は、アートや音楽にも関わってきます。お寺の木造の本堂は、畳や板張りでしょう。キリスト教の教会のような石造りとは異なるわけです。教会の中で発達してきた発声方法と、本堂で発達してきた発声方法も違うんですね。教会は反響がいいので、喉を大きく開けて、クリアな一音を発する。本堂は柔軟な素材なので、もっと身体を振動させるような発声になります。この本堂の発声方法が、日本の伝統芸能の発声方法の基盤になっています。
 先年、このような「宗教施設と発声方法」の関係を研究するプロジェクトに参加しました。文科省の科研費をもらって、機材を持ち込み、どんな響きになっているか、またそれを聞く人はどのような音を心地よいと感じているか、などを測定するんです。いくつかの本堂と、能舞台などでも測定を行いました。すると、やはりそこのお寺の住職が、一番いい声を出すのです。

安田へえー。

おそらく、毎日、そこの本堂で読経しているために、その場の一番よい音を出すことができる。無意識にそれが身にそなわっているんですね。住環境と人間の身体がシンクロしているんですよ。

安田あー、そうなんですね。

声楽の人が来ても、声明の先生が来ても、その場で最も心地よい音を出すのはその寺の住職(笑)。声量や節まわしなどが熟達していることと、心地よい音はまた別ものなのでしょう。


能の楽器も、体を楽器に合わせる

安田それはまさに、能管(能の笛)がそうなんです。からだが笛に合っていきます。

能管はなんともいえない不安定な音を出しますよね。

安田これは能の笛方(笛の専門家)から聞いた話なのですが、ある程度やっていると、師匠から能管を譲られるというか、購入するらしいのですが、その時点でこの笛は、すでにもう数百年たっています。で、手にした最初は、まったく音が出ないらしいんです。で、十年とか二十年とか吹いていると、音が出るようになる。でも、その音は師匠の音と似ている音だから気持ちが悪いと(笑)。これは笛によって自分の呼吸が変えられてしまっている、からだが笛によって作り直されたのです。

すごい話ですね。

安田で、また長いあいだ吹いていって、やっと笛が自分の笛、音になるということなのです。

能管は、管の中にもうひとつ管が入っているそうですね。

安田はい、ノド(喉)という管が入っています。

これがあるために、音が不安定になる。

安田そのようです。

だから、そもそもクリアな一音が出せないようにできている。それもまた、不思議なことですね。。

安田はい、変ですよね (笑)。

でも、お能の幽玄な場面には、あの不安定さが不可欠です。憑依芸能とでもいうべき、お能には能管でなければ表現できないものがあります。


日本の芸能はノイズがあるような音を好む

この前、一中節(いっちゅうぶし)の人に講義に来てもらいました。一中節は、義太夫節とほぼ同時期に成立した古い浄瑠璃です。少し一中節の方が先行して生まれたようです。やがて、義太夫節は舞台芸能の方へと歩みを進める、ご存知の文楽が代表的です。でも、一中節は別方向へと進みます。そもそも一中節は、浄土真宗のお坊さんが始めたものでして。

安田おお、そうなのですか。

はい、京都のお寺です。一中節はお座敷の芸能として展開します。古い浄瑠璃が今でも残っているところが魅力です。お座敷系の芸能は、上方舞をはじめ、ことごとく衰退していまして。だから講義に来てもらったんです。それで、語りの発声方法をお尋ねしたら、「喉や口の中に、なんかこう、管(くだ)がひとつあるようなイメージで発声するんだ」っていうんですよね。

安田ええー!

それ、能管と同じ構造じゃないか、と思いました。
 それで、このことをクラッシックの声楽の先生にお話したんですよ。すると、「ああ、それは西洋の声楽でも同じですよ。お腹からずーっとひとつの管が通ってるイメージで、喉を大きく開けて、クリアな音を出すように我々もトレーニングするんです」と言う。でも、一中節は、そういうのとはぜんぜん違うんですよ(笑)。一中節では、クリアな音はダメなんですから。もっと、こもったような、振動するような音を目指す。もっと揺れる不安定な発声なんです。ところがこれをお座敷くらいの空間で聞くと、なんともいえず心地よいのです。驚きました。もしかしたら、あまりクリアじゃなくて、音の周囲の輪郭がぼやけているような音を、我々の脳は心地よいと感じるのかなあ。

安田そうですね。日本の音楽はノイズが大事です。能でもわざとノイズが混じった声を出します。そうすると和音が必要ないんです。三味線の「さわり」などもそうですね。

ノイズをわざと出して、和音の必要をなくす?!

安田三味線には「さわり」というノイズを出す構造があって、三味線も「さわり」を外すと、ふつうにクリアな音が出ます。でも、わざと「さわり」を入れて、ビィンビィンというノイズを含んだあの音になるんです。

安田先生もご存知のように、伝統的な日本仏教のお説教も、同じような発声をやります。

安田はい。

そのような質感をともなった声が、こころに響く効果をもたらすことはあると思います。

安田はい。「さわり」って「触る」から来ていますが、英語で「さわる(touching)」って「感動させる」という意味がありますが、日本語の「さわる」は「差し障る」とかちょっとネガティブ。「ふれる」も「法にふれる」とか「気がふれる」とかね。でも、それほど深いところに届いてしまって、より危険だということもあるのだと思います。

そういうあやうさも、魅力のみなもとになっていますね。


石造りに合う発声法と、板張りに合う発声法は違う

安田「衣食住」について話していますが、この声や音と、「住」の装置との関係なども面白いですね。キリスト教だと、教会の屋根がドームのようになっています。

そうなんですよ。西洋音楽の声楽のベースは、やはり教会のグレゴリオ聖歌だそうです。また、あのドームの型のデザインも、ひとつの宇宙観だと思われます。ドームというのは、曲線がすべて頂点へと集約されるでしょう? それは一神教的宇宙観の表現だと捉えることもできます。ドーム型の天井で、大きな空間で、石造りとなると、すごく反響する。そこでは、ノイズを抑えた発声方法じゃないとダメでしょう。クリアな音じゃないと、聞いているのがつらくなってしまいますよ。それがキリスト教文化圏の発声方法の基盤にある。

安田先年、ウィーンの王宮で能の公演があったのですが、やはり響きすぎてやりづらいのです。声をひとつ出して、その音の反響が収まるまでにすごく時間かかるので、普通に謡うとダメで、いつもより間を大きくするんです。でも、そうすると忘れちゃうんですよ、セリフ(笑)。

(笑)。そういえば、お寺の本堂でオペラ聴いたことがありますが、やはりあまり良くないんですよ。たぶん、キリスト教の教会で浪曲を聞いても、いいように聞こえないと思うんですよね。


家は半分死者のためのもの

安田古代メソポタミアの家が発掘されているのですが、中に祭壇があって、この祭壇が、家そっくりなのです。

へえ。

安田で、最初は祭壇が家(住居空間)を模したのかとも思ったのですが、でもこれは逆で祭壇を模して家を作ったのかもしれないと思って...。僕たちの家だって、ただ住居だったら、屋根があって壁があればいいのに、わざわざ祭壇のように装飾をするのって考えてみたら変ですよね。

はい、そう思います。やはり「家」というのは、生きている人間だけのものじゃない。半分は死者のため、あるいは半分は神のため。死者と共に暮らす、神と共に暮らす、それが人間の「家」の源流じゃないでしょうか。人類が人類として成り立つプロセスにおいて、宗教的営みは大きな要因となりました。死者と共に暮らす感覚が、家の概念をつくり上げてきたのかも。

安田「宀(うかんむり)」は「家」という文字に付くので「家をあらわしている」といわれますが、あれはただの家ではなく、先祖の霊が降臨する廟堂です。文字というのは聖なるものだったので、日常の住居空間だったら、わざわざ漢字にする必要はなく、霊に関わる廟堂だからこそ文字にする必要があったのでしょうね。
 日本も、縄文遺跡などでは、お墓は街はずれじゃなく、土地の一番いいところに作って、お墓のまわりに家を建てますものね。

そうなんですよ。集落の真ん中にお墓を設定しています。時代が下るにつれて、集落のはずれへと移動していく。

安田はい。

そこはお墓であるとともに、宗教儀礼の場でもある。シャーマンが神がかりになる舞台だったりして。

安田あ、なるほど。そうですね。

ときには芸能の場となる。

安田おお、そうですね、そうですね。

そこに集う人たちが観客になれば芸能の発生です。
しかし、次第に集落から死者が排除されていくんですね。それが極端になったのが近代の都市です。それまでの墓地は、集落のはずれに位置するものの、微妙な距離を保ってきたようです。集落と墓地の距離は、黄金率みたいなのがあるそうですよ。中沢新一先生がおっしゃっていました。日常の隅っこにおかれるものの、意識しながら暮らす距離があるんですって。それが近代成長期になって崩れてしまったそうです。


儀礼への感性が枯れ始めている?

日常から死者を排除することで、宗教性のみならず、芸能の本領もそこなわれてしまうのかもしれないですね。もともとは、我々の衣食住・日常生活のあらゆるところが見えない世界へとつながる回路をもっていた。そして、そういう扉をキャッチアップするのは、東アジアの宗教お得意のことだったのでしょう。だからこそ儀礼を重視してきた。

安田確かにそうですね。能でも、亡き人の衣を着ると、その衣の持ち主に憑依されてしまいます。「げに思い出は身に残り」と能では謡いますが、死者の記憶を持つ衣が、自分の深層の身体に残っている「思い」に反応して、思いが出てしまう、それが「思い出」だというんですね。また、家の中の仏間は、まさに見えない世界につながる通路で、子どもの頃は懐かしくも、怖い場所でした。

はい。ところが、現代人は明らかに儀礼の場に身をおくのが苦手になっている。なにしろ現代人は、意味がよくわからない時空間に長く身をおくのがとても苦痛なんです。

安田確かに。

だから、仏教の儀礼にしても、すごく説明しなきゃいけない。説明されて、意味を与えられると、かなり平気になるんですよ。

安田おお、そうなのですか(笑)。

大学の式典や宗教行事においても、「なにをやっているのか、きちんと説明してくれ。そうでないと参加する意味がないじゃないか」などと、教職員から要望がきたりします。近年は葬儀・法要でも、儀式について説明をする場面が増えてきました。説明をうけて、頭で納得できれば、儀礼に参加する苦痛が少し緩和するんですね。どんどんロゴスティックになっている(笑)。そうなると、やはり「場を感知する能力」が枯れてきているのかなあ、というふうに思ったりするんです。

安田『論語』を読むと、弟子の質問に対する孔子の答えが全然、説明になっていない(笑)。説明って、本当は意味がないですね。質問は、自分で思索するのを横着して、ショートカットで答えを聞こうとするものが多いです。いま、クローズな会で能の謡を教えているのですが、参加される皆さんには、「十年間は基本的に質問をしないように」と言っています。

すごいですね、それ。

安田はい。僕が説明するぶんにはいいけど。また、十年間はやめないようにとも (笑)。その約束で始めました。説明なしの状態にいかに堪えるか、ということがたぶん大事で。

やっぱりそこですか、キモは。

安田はい。


お経や聖書を現代語訳すると儀礼性が失われる

僕も最近よくそういうことについて考えるんですよ。明らかに「説明してくれ」というニーズがある。それは感じます。そうなると、経典の読誦も現代語訳の方がいいですよね。だって、インドの経典を中国で翻訳して、それをそのまま日本語読みしているんですから。誰が聞いても意味わからないんですよね。インド人が聞いても、中国人が聞いても、日本人が聞いてもわからないんですから。

安田はい。全然わかりません(笑)。

誰もわからんものを読誦するって、変でしょう。間違っている行為だと思いますよね。それで、日本語に翻訳したものを読む、といった考えもあるんです。実際には表白や和讃など、日本語による読誦も昔からあるんですよ。でもそれもわかりにくくなった。だから現代語訳を読誦するという活動をしているお坊さんたちもおられます。だって、仏教の経典って、かなりおもしろいですからね。とても高度な思想も出てくれば、宗教文学も出てくる。それを現代日本語で翻訳したものを読むわけです。そうすると、やはりみなさん聞き耳を立てていますよ。お坊さんが読んでいるお経の意味がわかると、法事の苦痛もマシになるわけです。そこから仏教に興味をもつ人も現れると思いますね。
 ただ、明らかに儀礼性は低減します。儀礼の力は落ちてしまう。意味わかった方がいいなら、もう、自分で本を読んだ方が早いし。

安田ははは、そうですね。

このことはキリスト教でも同じ悩みだそうです。

安田おお!

『聖書』が現代語になっいてるんですが、「文語体のほうが良かった」というクリスチャンは多いらしいんですよ。「イエスはかく語りき」とか、「復讐するは我にあり」とか、ああいうカッコいいフレーズが、こころにビンビンくるらしくて。

安田そうですね(笑)。

それを「復讐するのは神さまのお仕事です」とすると、なんだかありがたさがない。

安田確かに(爆笑)。


分からないものに自分を合わせる力

つまりこの問題は、宗教がもつ聖性や儀礼性を無視して、「説明しろ」「オレに合わせろ」ということになってしまっては元も子もなくなります。我々の宗教性の琴線に触れる回路として、型や儀礼があるわけでして。むしろ、自分がそこへとチューニングしていかなきゃいけない。

安田はい。

チューニングする心と身体を養っていかねばならない。先ほどの、10年は続けろ、10年は質問なし、といったお話もこのことをおっしゃっているのではないですか。伝統芸能のお稽古は、そこが肝要だと。

安田本当にそうです。言葉で説明しちゃうと平面的になってしまいます。立体的にというか、本当はもっと複雑な、さまざまなものが錯綜しちゃってわけのわからない状態に投げ出されて、そこで何かをつかんでいくことが古典芸能では大事ですね。
 いま『イナンナの冥界下り』という作品を上演しているのですが、基本はシュメール語で、それに能の謡が日本語で入ります。この作品の中でいちばんわかりやすいのが、僕の謡だったりします、あとはシュメール語なので (笑)。シュメール語に比べれば、謡はわかりやすい (笑)。でも、儀礼的だし、祝祭的なので2時間以上の作品でも面白く観ることができるのです。


宗教儀礼は内在時間を伸ばす装置

よくあちこちでお話しているのですが、現代人は心身の時間が萎縮しているために、苦しくてイライラしてると思うのです。

安田確かに朝の駅などに行くと、イライラしている人が多いですね。だから、できるだけ近づかないようにしていますが(笑)。現代人は苦しいですね。

物理的な時間をクロノス、心身の時間をカイロスと呼んで、区別しているんです。考えてみれば、昔に比べて移動時間は短縮しているし、かつてとても手間ひまかかったプロセスをすっとばすことができる。飲食にしても、火や水を使うことにしても、家電製品にしても、現代人のほうがひと昔前よりずっと時間余ってしかるべきでしょう。ところが明らかに今の方が忙しいんですよね。ほら、お芝居観るのも、昔だと一日がかりなんですよ。観劇もずっとのんびりしていた。

安田能も昔は五番立てといって、能が五番でその間に狂言が入り、最初に『翁』という神事のような能も上演されたので、朝から晩までかかりました。映画館もそうでしたね。

法事もすごく長かったです。葬送にしても、お通夜が二晩あったり、お葬式から野辺送りまで、みんなけっこうずっと付き合っていました。いま、お通夜ぐらいしか来ないじゃないですか。

安田確かにそうですね。

現代人のほうが時間余るはずなのに、忙しい。それは、いくらクロノスの時間を余らせても、カイロスの時間が萎縮してたら、忙しくて、苦しくて、イライラすることになるんですよ。人間は、長い時間の中で生きていると、少しのデコボコなど引き受けることができます。でも委縮した時間に身をおいていると、ちょっとしたことも許せなくなります。そうしてどんどん自分自身が苦しくなっていく。だから、いかにカイロスの時間を延ばすのかは、現代人はテーマなんです。

安田内在の時間ですね。

はい。そして、人類にとって内在時間を延ばす最大の装置は宗教儀礼です。宗教儀礼の場に身をおくことによって、少しずつ少しずつカイロスの時間が延びるのです。


三年の喪は長すぎるのか

安田『論語』の中に宰我(さいが)という弟子が、孔子に向かって「三年の喪って長すぎないですか?」って言うんです(笑)。

それはとても面白い質問ですね。

安田はい。「一年でいいんじゃないか」と。しかも、なぜ三年が長いのかということを孔子に向かって論理的に説明するのです。

論理的に考えたら、かなり非効率なことですからね。

安田三年も礼をおさめなかったら礼もすたれるし、楽を修めなければ楽もダメになるし。

とても論理的な説明です。

安田で、古い穀物がなくなって新しい穀物が実るのも一年だから、一年でいいでしょう、と。これ、面白いですよね。植物を、人間の生のアナロジーとして使って...。

実にもっともな意見です。

安田孔子はそれに対して、「お前は親が死んで三年も経たないのに米を食べたり、錦を着ても何にも思わないのか」というんです。で、宰我が「思いません」というと、「それなら、そうしなさい」となるのです(笑)。

孔子ってそんな人なんですね(笑)。

安田普通なら、親が死んで三年間は、旨いものを食べても旨くないはずだし、音楽なんか聞いても楽しくないはずだと。でも、それで楽しいんだったら勝手にそうしろと。

孔子の本意はどこにあったのでしょう?

安田本当は、三年間やりなさい、という意図で言っているのではないでしょうか。

ちょっと皮肉な言い方ですね。孔子はしばしばそういうアイロニカルな物言いをしたのですか?

安田そうなんですよね。他の孔子の言葉から考えると、ここ、ちょっと変なんです。実は、この章は孔子の死後、かなり経ってから挿入されたものではないかと言われています。他の孔子の言葉から考えると、本当は「各自にあった方法ですればいいんじゃないか」と言いたかったのかもしれません。それを後世の弟子が、勝手に解釈してこういう文章にしたのかも知れません。


韓国映画『祝祭』に描かれる儒教の葬礼の様子

韓国はよく、本場の中国よりも儒教の国だ、などと言われるでしょう。だから、昔の韓国では、親が亡くなった際の服喪はすごく長かったんですよ。お墓の横に家建てて、そこに三年ほど暮らしたみたいですよ。

安田おお、そうなのですか。

儒教が生まれた本家の地ではやっていないのに、辺境の地では続けていたんですね。わりと近年まで、田舎の方なんかは長い服喪期間を守っていたそうです。

安田うちの実家もかなりの辺境でした(笑)

先ほどご紹介した韓国映画の『祝祭』。あれは現代の韓国が舞台なんです。ただ、ソウルからはちょっと離れた、田舎のお葬式です。

安田はい。そちらは観ました。

この映画で、最近の葬儀や法事は簡略化されてしまって実にけしからん、という話が出てくるって言ったでしょう。そこに現代人の問題の根源があると、映画のセリフで語られるのです。「そもそも死者儀礼を省略したり簡略化することで、人間の上下関係が崩れ、高齢者を大事にしない社会になり、自分勝手な人が増えて、どんどん歪んでいくのだ」って言うんですよ。


死者儀礼を担当する宗教の違い。日本は仏教、台湾は道教、韓国は儒教

安田確かに『論語』のなかで、儀礼としてちゃんと語られるのは死者儀礼が中心ですね。

そのあたり、道教との関係はどうなんでしょう? 台湾では道教が死者儀礼を担当しているようです。

安田そうですね。中国も、ある時代から道教っぽいお葬式が多いようです。

日本の場合は仏教が担当しています。韓国は儒教が担当している。死者儀礼をどの宗教が担当するかって、意外に大きい問題かもしれませんね。


芸能と宗教の関わり合い

いろいろなトピックスをお話してきましたが、やはり宗教と芸能のあり方や、宗教とアートのあり方などを、現代人は再考せねばならないのだと思います。

安田そうですね。こういう言い方をすると宗教家の方にはナンですが、むしろ時によっては芸能家のほうが宗教的なところがあると思うこともあります...。

おっしゃるとおりです。

安田これが宗教的かどうかはわかりませんが、たとえば「この曲(演目)は不吉だから、うちの家はやらない」とか、「『道成寺』(という演目)を演じるときは、かならず道成寺にお参りに行く」とか。あるいは精進潔斎をしたり、別火(ほかの人とは別の火で食事を作る)をしたりとか...。カップラーメンでも別火だとか。

あはは。


近視眼的になる宗教を脱線させるのが芸能

宗教が本来的にもっている具合の悪さみたいなものもあります。宗教のシステムは、ギューッと凝縮する方向へと導くんですよ。だから、時には近視眼的になります。独善的にもなり、排他的にもなってしまう。しかし、それをガクッと脱臼させる役目を果たすのが、芸能とかアートなんですよね。

安田なるほど。

だからほんとは、宗教と芸能や、宗教とアートが、両輪回っているのが望ましいのだと思うのです。どの宗教にも、良いところもあれば、具合の悪いところもあります。暴力性や差別性も内蔵している。しかし、それが発動しないように、教義というリミッターが設定されています。なにしろ、宗教の暴力性が発動すると、人間の力では止まらない。

 そこで大切なことは、宗教のまわりにアートや芸能があることでしょう。両方かみ合って回っている状態です。特に芸能は、凝縮したものを拡散させる能力が高い。宗教が持つ凝縮能力にたいして、芸能がもつ拡散能力、そんな構図があります。もちろん、芸能にとっても、自身の中にある宗教性を手放さないことが重要でして。芸能が発揮する宗教性に対して鈍感になってしまってはいけない。


能と狂言の関係、宗教儀礼としての能と、パロディーの狂言

安田能を始めとして芸能は本来、宗教があるものですからね。エンターテインメントの語源は「アミューズメント」と関わりがありますが、「アミューズ」自体が「注意をそらす」ですから、ある意味、拡散ですね。能は、そういう意味では集中しやすいので、拡散させる装置として、かならず狂言を入れます。能のあとに狂言をして、また能をして狂言をして...と。能を完全にパロディーにした狂言というのもいくつかあります。

能と狂言の関係で考えると、わかりやすいですね。元ネタをパロディーで揶揄する。これぞ芸能の本領発揮ですね。

安田はい。能と装束をほぼ同じにして、セリフもほとんど同じという曲(演目)があります。

わあ、観たいです。どんな演目なんですか。教えてください。。

安田たとえば能に『葵上』ってあるでしょ。

なんと、『葵上』のパロディーですか。

安田はい。能『葵上』では、六条御息所の生霊を、横川小聖(よかわのこひじり)という山伏のような姿をした聖が法力で成仏させますが、たとえば『梟(ふくろう)山伏』という狂言では山伏がこの横川小聖とほとんどおんなじ格好で出てくるんです。で、謡うのも、『葵上』の横川小聖とほとんど同じ謡を謡うのですが、ちょっとずつずれている。調伏する相手は六条御息所の生霊ではなくて、フクロウにとり憑かれた男なんです。で、一生懸命に退治しようとするんですけが、ぜんぜんダメで、彼を連れてきた兄にまでフクロウがのりうつっちゃって、ふたりでホーホーといいながらどこかに行ってしまいます。最後には山伏まで乗りうつられてホーホーといって帰るという(笑)。

いいですね、それ(笑)。宗教性を発揮すると同時に、その宗教性をも揺さぶるだけの能力を持つ芸能。すばらしいです。

安田これがフクロウではなくキノコの精霊というのもあって、本当に能をおちょくってます(笑)。いま、『葵上』のあとに『梟(ふくろう)山伏』を上演しようというと、シテ方が嫌がりますね。せっかくやったのを台無しにされるっていって(笑)。

(笑)。

安田でも、とっても面白いです。

今のお話を聞いて、思いついたことがあります。安田先生への持ち込み企画としてもいいですか?

安田はい。もちろん歓迎です。

法要でおこなわれるお説教をパロディにしている落語のネタがあるんですよ。だから、実際にお坊さんにお説教をしてもらって、その後、噺家さんにこのネタをしてもらうというのはどうでしょう。勤行もやって、お説教もお聴聞して、きちんとした法要を営む。その後、この落語。お説教の持つ聖性が見事に外れてしまうのではないかと。

安田おお、そういうのもあったのですね。こんど、どこかでやりませんか?

やりましょうか。もう少しよく考えさせてくださいね(笑)。まず法要のご縁を結ぶところから始めないと。それに、その落語ができる人は、今いないと思うので、まずはそれをやってくれる噺家さんを探す必要があります。しかし、宗教と芸能とがそれぞれの役割を果たすような場になりそうです。

安田はい。では今度ぜひ!


    

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安田登(やすだ・のぼる)

1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた25歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『異界を旅する能ワキという存在』(ちくま文庫)『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』(実業之日本社)、『あわいの力「心の時代」の次を生きる』『イナンナの冥界下り』(ミシマ社)など多数。

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