セトウチを行く

第4回 ふたつの秋祭り2 塩屋荒神社例大祭(赤穂市)

2015.12.17更新

 兵庫県西端の赤穂市は、忠臣蔵の「赤穂浪士」で有名な町だ。関西圏では、JR新快速の終着駅としても知られる。そして、赤穂といえば、「塩」。その歴史は、とても古い。

 現存する古文書には、753(天平勝宝5)年から、播磨守の大伴宿禰(おおとものすくね)が現在の塩屋地区にあるハブ山で葦原を墾田し、製塩用の薪をとる塩山を開発したと記されている。756年、天皇の勅旨により、この塩山30町歩が大仏造立を終えたばかりの東大寺領とされた。これが塩荘園である「石塩生荘」(のちの「赤穂荘」)のはじまりである。

 塩づくりには、海水を煮詰める大量の薪が欠かせない。当時、中央の有力寺院は、製塩燃料となる山林を塩山として囲い込み、その山木を伐採して塩を焚く製塩民から塩を納めさせていた。843(承和10)年には、東大寺領の塩山は60町歩に広がり、50町歩あまりの塩浜の経営も行われるようになっていた。

 今回の秋祭りの舞台である塩屋の荒(こう)神社は、この塩荘園が築かれたハブ山の麓に鎮座している。地元では「正面荒神」、通称「正面さん」と呼ばれてきた。古い由緒ある神社のはずだが、創建に関する史料は残されていない。少なくとも塩屋の「氏神」となったのは、それほど昔ではないようだ。

 江戸初期、赤穂南部一帯の氏神は、尾崎にある赤穂八幡宮だった。現在の荒神社の場所には、塩釜焚きをする人が「火の神」を祀る小さな社だけがあった。言い伝えによれば、塩屋の住民から「地元に神社があれば、自分たちで御輿を担いだり、芝居の興行を楽しめるのに」という声があがって、荒神社の大改修が行われたそうだ(『赤穂の民俗』)。これが本当なら、祭りをするために神社を建てたことになる。それはおもしろい。

 秋祭り前日の宵宮の朝。朝早くから、お囃子が聞こえてくる。妻の実家から歩いてすぐの荒神社に向かうと、拝殿前で鼻高(天狗)の舞いがはじまっていた。たくさんの紙垂(しで)を束ねて後ろに長く垂らした鼻高が、先端に大きな丸い紙飾りをつけた青竹を片手でくるくると回しながら、飛び跳ねる。金歯を食いしばった真っ赤な天狗の面の下から、ときどき「オゥー、オゥー」と低い唸り声があがる。

 地面に敷かれた筵の両側には、14、5名の若い男衆が居並ぶ。一様に険しい表情だ。その後ろで制服姿の中学生が横笛を吹き、太鼓が叩かれる。拝殿前の階段には、数人の父兄が三脚を立て、ビデオカメラを回す。その周りに腰掛けた小さな子どもたちがじっと舞いを見つめる。拝殿のなかには、礼服にネクタイ姿の中年男性たちが腕組みをして立っている。

 小学1年生が務める2人の唐子(からこ)とともに、獅子が入ってくる。頭と胴とに分かれ、ときにユーモラスな動きを交えながら、連携のとれた舞いを披露する。地に伏して小刻みに頭を横に振り、尾を上下にぱたぱたと動かす。すばやく肩車をして獅子頭を高く掲げる。途中、男衆のひとりが獅子の脇に静かに進み出て、さっと舞い手が入れ替わる。その動きがまた格好いい。子どもたちの目が輝く。

 最後のクライマックスで、再び鼻高が登場。ぴょんぴょんと跳ねながら獅子を棍棒で打ちすえる。笛と太鼓のテンポが早まり、舞いも激しさを増す。ひときわ甲高い笛の音とともに舞いが終わると、控えていた男衆がすぐに鼻高の脇を支え、退場させる。酸欠状態で歩くのも難しいのだ。

 鼻高役と獅子役を務めた男衆が駆け足で境内を出ていく。複数の軽トラに分乗し、すぐさま神社を離れる。どこに行くのだろうか。家に戻って部屋でゆっくりしていると、いろんな方角からお囃子の音が響いてくる。隣接する新田地区やその隣りの折方地区も、秋祭りの宵宮のようだ。夕方、娘ふたりを自転車の前後に乗せ、みんなで音のするほうへと向かった。

 塩屋川沿いの道を走る。夕焼けの淡い光が薄曇りの空一面に広がる。近くと遠くで笛と太鼓の音がこだまする。と、突然、自転車に乗った小学生の一団が猛スピードで角を曲がってくる。後ろから、荷台に太鼓と男衆を乗せた軽トラが走ってくる。鼻高の面を額まであげた男性の姿もある。さらに、中学生くらいの女の子たちも、懸命に自転車で車のあと追いかけていく。

 自転車をとめ、あっけにとられている私の横で、妻がつぶやく。
 「ああやって、私もずっと鼻高のあとを追いかけてたな。今思えば、恥ずかしいけど」
 鼻高や獅子を舞う男衆は、小中学生の憧れの的なのだ。それは20年前から変わっていない。
 「いつまで追っかけしてたの?」
 「中学のときは、好きな先輩目当てで追っかけてたけど、高校生になっても、獅子舞いが見たくて、友だちと追っかけてたかな。あの太鼓の音が聞こえてくると、わくわくするでしょ?」
 「いやぁ、そういうものかな・・・・・・」
  赤穂の子どもたちは、みんなあのお囃子を聞くだけで、心が沸き立つようだ。   
 
 2台の軽トラは、側道にいた私たちの横をすり抜け、一軒の民家の前に止まった。すでにたくさんの人垣ができている。男衆が荷台から飛び降りる。鼻高と獅子が舞いながら玄関から中へと入る。そして、家の前に敷かれた茣蓙のうえで舞いを披露する。こうして花代を納めた家庭を一軒一軒まわっているのだ。「賃舞い」と呼ばれ、家族の災厄を祓う願いも込められている。

 お揃いの赤いニット帽をかぶった女子中学生3人組が正面に陣取り、先に携帯のついた自撮り棒を握りしめている。小学生の男の子たちも憧れの目でじっと見つめる。その熱を帯びた表情をみていると、加茂大祭のときの高校生の会話を思い出した。ほとんど観光化されていない塩屋の秋祭りでも同じだ。ちゃんと祭りが「生きられている」。それは、この時代において奇跡的なことに思える。

 いまぼくらは、いろんな外からやってきた価値基準で評価される時代を生きている。受験勉強だって、就活だって、会社に入っても、家庭に入っても、誰が決めたかわからない一般化された物差しで、他人に判断され、自己評価を下す。何が優れていて、何が劣っているのか。その基準やルールは、ほとんど自分たちの手の届かないところでつくられ、ぼくらの生活を覆い尽くす。

 「祭り」の世界は、それと対極にある。この時、この場所でしか通用しない非日常の価値が「祭り」という時間と空間を満たしている。「イケメン」でも、「スポーツマン」でも、「高収入」でもない。鼻高や獅子役に選ばれること、祭りのあいだ朝から晩まで舞い続けること、重い屋台(御輿)を担ぎ上げること。それが自分たちの世界の揺るぎない価値として受け入れられている。祭りで活躍する子どもから大人まで、誰もが塩屋のヒーローになる。社会的にどんな立場でも、そこで誇りを取り戻し、再び日常へと戻る。

 舞いが終わると、男たちはすぐに軽トラの荷台に乗り込む。缶ビールの箱が無造作に荷台に投げ込まれる。軽いエンジン音を響かせて車が走り去ると、子どもたちの自転車の群れが、その後を追う。日が暮れてからも、お囃子の音は鳴り響いていた。

 秋祭り当日の本宮。塩屋の東西2つの地区から、大小4つずつの屋台が出て、町を練り歩く。参道には露店が並び、大勢の地元の人が集まる。夕方、荒神社にすべての屋台が集結し、子ども屋台から大人たちの大屋台まで、順々に境内を回る。伊勢音頭に合わせ、一気呵成に重い屋台を頭の上まで持ち上げると、神社を埋めた観衆から拍手がわき起こる。相手の地区に見せつけるように、力強さを誇示しながら、境内を一周する。

 日が落ちると、さすがに肌寒い。さっきから目の前で、疲れて座り込んだ10歳くらいの女の子が母親に向かって、ごねている。
 「早く帰ろうや、お腹空いたよ・・・・・・」
 「もうちょっとやから、がまんしぃ」 
 「うぅ、寒いよぉー」
 「もう、うっさいなぁー。 おかあさん、最後の大きな屋台、見たいねん!」
 見上げると、ハブ山の森の向こうから朧月が出ている。境内に集う人びとの熱気は続く。

 人は、なぜこれほど祭りに魅せられるのか。祭りは何を生み出しているのか。セトウチの2つの秋祭りにふれて、ぼんやりとわかった気がする。来年も楽しみだ。

 岡山に戻って1週間後。テレビでは、ハロウィンで仮装した若者が渋谷の交差点にひしめき合う様子が映し出されていた。もしかしたら、あれは自分たちの「秋祭り」を失ってさまよう人びとの群れなのかもしれない。そう思えた。

鼻高と獅子の賃舞いを囲む人たち



参考文献
赤穂市史編纂専門委員会(編)1981『赤穂市史』
赤穂市教育委員会(編)1987『赤穂の民俗 その六 塩屋編』

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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