セトウチを行く

第11回 旅する大工とヌートリア(丸亀市・本島)

2016.08.17更新

 岡山県東部の話が続いたので、少し西に目を向けてみよう。

 岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋。1988(昭和63)年に開通したこの橋は、塩飽(しわく)諸島の島々に架橋されている。塩飽諸島は、瀬戸内海が狭くなる「備讃瀬戸」と呼ばれる海域の28の島からなる。「村上水軍」が活躍した芸予諸島とならんで瀬戸内海航路の要衝を占め、つねに歴史の舞台となってきた。2015年10月、そのひとつの「本島(ほんじま)」を訪れた。

 丸亀港からフェリーで海を渡る。デッキに出て潮風にあたる。どの方角を見ても島影が重なりあっている。初秋の昼下がりの柔らかな光が海面にきらきらと反射する。その光の帯のなかを大型船が列をなして行き交う。

 本島が近づくと、山の中腹に巨大な瓦屋根の建築物が見える。いったい何の建物なのか。本島の泊港に静かに着岸。自動車やバイクとともに歩いてフェリーを降りる。山の緑が濃く、木々の薫りが風に漂う。海岸線に沿って背の高いヤシの木が並んでいる。港でママチャリを借り、島の北側の「笠島」という集落を目指す。船から見えた巨大な建物の入り口には、これまた巨大な二本の門柱があった。「天理教本島大教會」とある。
 
 笠島地区は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。そのなかに素泊まりで泊まれる古民家「大倉邸」を予約していた。島の東海岸の道からは、瀬戸大橋を真横から端から端まで見渡せる。緩やかな坂を下り、小さな港町にたどりつく。道端で担当の方が鍵をもって待っていてくれた。

 静かな集落だ。私たちの話し声と足音だけが石畳の通りに響く。漆喰の壁にはさまれた通りは、隅々まで掃き清められている。大倉邸の門をくぐる。敷石の脇に緑色が鮮やかな苔。玄関の重い扉をあけると、「カマバ」といわれる広い土間に竈神を祀る大きな竈がある。奥の勝手口から中庭に出る。古い井戸がある。土間から上にあがると、床の間のある立派な座敷が二間つづく。中庭に沿ってのびた廊下の先にトイレとお風呂。懐かしさを感じる佇まいだ。

 翌日、朝から自転車をこいで、島の重要な史跡である「塩飽勤番所」へと向かう。中世以来、塩飽水軍で名をはせた塩飽諸島は、織田信長や豊臣秀吉、徳川幕府に至るまで、どこの藩にも属さず、「自治」を許されていた稀有な歴史をもつ。

 信長が石山本願寺と対立したときには、塩飽水軍が本願寺への救援船を討った。秀吉の北条攻めでは、塩飽の船方衆が荒天のなか兵糧米をいち早く小田原に届け、関ヶ原の合戦や大阪夏の陣でも、家康側について兵糧米の輸送や敵方の情報収集などを担った。

 その高い造船・操船技術から、つねに「御用船方」として時の権力者に仕え、代わりに「人名(にんみょう)」と呼ばれる650人の船方衆による自治が幕末まで続いた。人名の代表である「年寄」が執務した勤番所には、いまも信長、秀吉、家康が自治を認めた朱印状が保管されている。

 戦乱が終わった江戸期、塩飽の船方衆は天領からの年貢米である「城米」の輸送を担った。出羽の酒田から日本海を西に向かい、下関から瀬戸内海、大阪、紀伊半島をへて江戸へと至る、いわゆる西廻り航路を塩飽船が一手に引き受けた。

 1720(享保5)年、幕府による塩飽の直雇(じきやとい)が終わり、廻船業が衰退しはじめる。塩飽の人びとは、船大工の技術を応用し、宮大工として各地の寺社仏閣の建造にたずさわるようになる。塩飽の歴史には、中央権力の盛衰の行く末を読み、その姿を巧みに変えながら生き延びてきたセトウチの島人の生きざまが織り込まれている。

 午後からは、観光ガイドの信原さんに案内していただき、島の西部にある「生ノ浜(いきのはま)」に向かった。信原さんを含め、3世帯5人だけが暮らす小さな集落だ。

 「この集落も、江戸の終わりごろには70軒くらい家があって、そのうち40軒以上が大工だったそうです。みんな島外に働きに出ていて、島に帰るのは盆と正月くらい。その塩飽大工の技術が見られる神社がこの生ノ浜にあるんですよ」

 海岸沿いの道から集落の中に続く細い道を入る。数軒の空き家の奥に、小さな社が見える。三所(さんしょ)神社。1835(天保6)年に建てられた本殿には、各地を旅していた塩飽大工たちが故郷に残した作品があるという。

 「どうぞ、この本殿の屋根の下を見てください」 
 1903(明治36)年にあらたに造営された拝殿の裏に回り、本殿の軒先を見上げる。
 「おぉ!」

 思わず声がでる。暗がりのなかに、今にも動き出しそうな龍の姿が浮かぶ。屋根を支える柱の正面には口を大きくあけた獅子、側面の木鼻には鋭い牙を上に向けた獏(ばく)。他にもやわらかな線で花や蔓を彫ったレリーフがいたるところに彫り込まれている。神社の彫刻でこれほど繊細で生き生きとした描写のものは他に記憶がない。小さな集落の小さな社に、こんな見事な作品があるとは、想像もしなかった。

 三所神社の本殿の彫り物の一部は、生ノ浜出身の塩飽大工、橘貫五郎の手によるとされる。貫五郎は、香川善通寺の五重塔や備中国分寺(岡山県総社市)の五重塔の建立でも知られる。国宝である吉備津神社(岡山市)の本殿の修復に際しても、本島の塩飽大工たちが腕をふるった。吉備津神社には、いまも「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の棟札が残されている。

 明治から昭和初期にかけて、塩飽大工は、大阪や神戸などで家大工としても活躍した。戦後には、都会でさまざまな職業につく人が増えた。信原さんも含め、島にいる男性の多くは島外で働いた経験がある。島を出て「旅稼ぎ」する。それが島の男たちのいまも変わらない生き方のようだ。

 信原さんの運転するミニバンで島の北側の大浦へと出る。砂浜がきれいな弧を描く入り江だ。遠く海の向こうに岡山の水島臨海工業地帯が見える。いくつもの煙突から立ち上る白煙が、空に浮かぶ雲と重なる。静かな入り江に向かって、まっすぐと波が打ち寄せる。

 大浦から島のなかを南下する道に入ると、民家のそばに小さな畑が点々とつづく。
 「最近、ヌートリアの害があるんですよ。畑の作物を荒らすんで、先日も駆除したところです」
 「えっ? ヌートリアですか・・・・・・。いったい、どこから来たんですか?」
 「あの、岡山のほうからね。海を渡ってきたんですよ。戦時中に軍人の襟巻きをつくるためにね、毛皮用に岡山で養殖したやつが増えてね。島までやってきたんです。岡山は軍服づくりが盛んだったでしょ」

 大浦海岸から眺めた海をヌートリアがぷかぷかと漂いながら泳いでくる姿が目に浮かぶ。同時に、海を隔てて離れていた岡山と本島とが、頭の中ですっとつながる。

 岡山に学生服メーカーが多いことは知っていた。だが、その意味を深く考えたこともなかった。当然、戦時中は、軍服をつくっていたわけだ。最近は、国産ジーンズの生産でも有名になった。塩飽水軍や塩飽大工の活躍した本島の歴史が、海を渡ってきたヌートリアを介して、岡山で栄えた繊維産業の歴史と結びつく。セトウチの海は、人や土地を隔てるのではなく、つないでいる。次回も続けよう。



塩飽諸島の海を行き交う船


参考文献
塩飽史談会(編)2011『塩飽史年表』
谷沢明 1987「塩飽の島じま――技をもつ海人の辿った道」『あるく みる きく』242号[田村善次朗・宮本千晴(監修)2011『宮本常一とあるいた昭和の日本5 中国四国②』(農文協)所収]

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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