セトウチを行く

第12回 国家に抗する1(エチオピアから岡山へ)

2016.09.29更新

 この夏、2週間ほどエチオピアに行ってきた。オリンピックで銀メダルをとったマラソン選手、フェイサ・リレサの抗議のポーズで、エチオピアの政治状況が日本でも報道されている。今回は、この話からはじめよう。

 ドバイ経由でエチオピアの首都アジスアベバに着いたのは、8月23日。フェイサ選手が、頭上で手首を交差させ(=手錠をかけられた姿)、自由が失われていることへの抗議を示しながらゴールした2日後のことだ。アジスの街は、いつもどおり平穏だった。

 顔なじみのタクシー運転手に聞くと、ゴール・シーンは生中継だったためそのまま放映されたものの、その後、国内のテレビやラジオではフェイサ選手の名前が出ることはなく、彼の抗議についてもほとんど報道されていないようだ。後日、私が観たリオ・オリンピックを振り返る番組では、抗議ポーズをしていないゴール・シーンが、一瞬、流されただけだった。
  
 日本では、エチオピア最大の民族であるオロモ人への民族弾圧という文脈の報道も多い。実際は、かならずしもそれだけではない。2015年11月以降、治安部隊の発砲で400人以上ともいう死者が出て、数万人もの人が拘束された反政府デモは、たしかにオロミヤ州(オロモ人の自治州)で始まった。人口が急増しているアジスアベバの領域を拡張する計画に対して、土地を奪われるオロモの若者たちが抗議の声をあげたのだ。

 2016年7月以降、混乱は北部のアムハラ州西部にも広がった。アムハラは、エチオピアでオロモに次いで人口が多く、歴史的にも長く支配的な地位を占めてきた民族だ。アムハラ語は、エチオピアでもっとも広く話されている。首都に着いて2日後、飛行機でアムハラ州東部のラリベラへと向かった。

 バハルダール経由ラリベラ行きの飛行機は、乗客が7〜8人しかいなかった。客室乗務員がバハルダールに降りる搭乗客がいないことを確認すると、フライトは説明もなくラリベラ直行便に変更された。そのときは、空港まで送ってくれた運転手の言葉、「バハルダールはすべて閉まっている」の意味をよく理解していなかった。

 ラリベラの空港でホテル・オーナーの友人と再会。彼の車で町に向かう。アムハラ州西部のバハルダールやゴンダールといった町で何が起きているのかを訊ねると、彼は表情を曇らせながら言った。

 「まだ毎日のように死者が出ている。7月の反政府デモの弾圧で、100人以上の人が死んだ」
 「今日は、誰もバハルダールで降りる客がいなかった。店やホテルが閉まっているって、ほんと?」 
 「市民が抗議デモの方針を変えたんだ。デモをすれば治安部隊に弾圧されるから、何もしないで家にいることで抗議する。ストライキみたいなものさ。商店も、ホテルも、役所も、すべて閉まっている。市民が道路を封鎖して、ミニバスとか、三輪タクシーも走っていないから、誰も出勤できない。店やオフィスをあければ窓を割られたり、放火されたりするし、みんな怖がって家にいるんだ。ラリベラも、めっきり外国人観光客が減ったよ」

 私は政府が治安維持のために店や役所を閉めさせたと勘違いしていた。いわゆる「ゼネスト」による市民の抗議が始まったのだ。数日後、抗議活動は、複数の町に飛び火した。ネットの動画ニュースやFacebookの書き込みによると、アムハラ州西部の10をこえる町でゼネストが起きているという。

 ちょうど朝の国営放送のニュースでは、ネット情報には悪意ある虚偽が含まれるから注意が必要だと、専門家や市民がコメントする特番が流されていた。夕方、滞在先のホテルには、オーナーと同世代の友人たちが集まり、YouTubeにアップされた海外配信のアムハラ語ニュースを携帯で観ていた。私が「アムハラ州では何が問題になっているの?」と訊ねると、輪の中のひとりが説明してくれた。

 「現政権(1991年〜)になってから、ゴンダールの北にあるアムハラの土地がティグライ州(ティグライ人の自治州)に編入された。自分たちの土地の代表は自分たちで選ぶと、人びとが自主投票をして、その結果をもってゴンダールの行政府に抗議に行ったら、その人たちに向かって警察が発砲したんだ。おまえは、知っているか? エチオピア軍のトップは、ほとんどティグライ人なんだぜ」
 「ラリベラでは、抗議活動は起きないの?」
 「ラリベラの人間は、恐がりだからな・・・・・・」 
 そう言いながらも、みんな他の町での抗議活動の広がりが気になってしかたないようだった。

 突然、町の中心部の広場に銃を高く掲げて隊列を組んだ集団があらわれる。大きな声で勇ましい歌を歌いながら、駆け足で行進していく。

 「あれは、自警団(政府が退役軍人を組織したもの)のやつらで、抗議活動を起こさないように、人びとを威嚇しているんだ。でも俺たちが行って、もうやめろと言えば、やめるさ。みんな内心は、あんなことやりたくはないんだよ」
 
 エチオピア政府への抗議活動の根底には、総人口のわずか6%ほどのティグライ人が政治経済のあらゆる実権を握っていることへの反発がある。とくに、オロモ(約34%)やアムハラ(約30%)といった多数派の不満は根強い。

 経済投資はティグライ州に集中し、公的機関の要職はティグライ人に席巻されている。政府関係者とつながりの深いティグライ系の民間企業も急速な成長をとげた。過去10年間、毎年10%を超える経済成長の恩恵を、一部の者だけが独占している。それが、物価高騰に苦しめられ、格差拡大を目の当たりにしてきたエチオピア庶民の率直な思いだろう。

 アジスに戻ると、バハルダール周辺の外国資本の10あまりの花栽培農園が放火されたというニュースが入ってきた。エチオピアの主要産業に成長しつつある花輸出の重要拠点が大きなダメージを受けた。数日後には、アジス近郊の政治犯を収容する刑務所でも放火があり、23人の死者が出た。混乱は続いていた。

 人びとの受け止め方はさまざまだった。アジスのタクシー運転手はつぶやく。
 「政府への不満はわかる。でも、今の政権を倒したあとに、誰がこの国を担うっていうんだ? もう内戦状態に戻るしかなくなるだろう・・・・・・」

 結局、いろんな人の不満や不安に耳を傾けるだけで、重い気持ちのまま帰国の途についた。エチオピアに長年かかわってきながら、あまりにも無力だ。帰りの飛行機で、ふと岡山の「一揆」のことが頭に浮かんだ。日本の民衆は、権力にどう立ち向かってきたのか。大学に戻り、すぐに図書館で文献資料を集めはじめた。

 岡山の地域史をたどると、権力への抵抗とその弾圧の歴史が浮かびあがる。とくに美作(みまさか)を中心とした県北は、元禄高倉一揆(1698年)から、山中一揆(1726-27年)、勝北非人騒動(1739年)、文政非人騒動(1825年)、改政一揆(1866年)、鶴田騒動(1868-69年)、血税一揆(1873年)と、江戸初期から明治初期まで一揆の歴史をたどれる全国的にもめずらしい地域だ。県南でも、渋染一揆(1856年)や県南四郡農民騒動(1871年)といった大規模な一揆が起きている。

 多くの一揆は、年貢の減免を求める農民蜂起だった。「非人騒動」は、生活に困窮した百姓たちが物乞いを許される被差別民の姿をして、裕福な名主などの家に集団で押しかけたものだ。干ばつなどによる不作にもかかわらず、7割から8割を超える年貢の徴収に、人びとは文字通り命を賭けて抵抗した。

 なかでも大規模な「山中一揆」では、年貢の免除や運上銀の廃止などを求め、数千人の人びとが津山藩の各所で蜂起した。年貢の減免や庄屋罷免の要求は認められたが、最終的に藩の組織した鎮圧軍によって147人が捕えられ、そのうち50人あまりが打ち首や磔(はりつけ)で処刑された。

 明治に入ってすぐに起きた「県南四郡農民騒動」でも、年貢減免の要求が認められないことに対し、7000人にもおよぶ農民が10日間にわたって各地で次々と蜂起し、村役人の家を襲撃するなど、県南部一帯を大混乱に陥れた。軍隊が出動し、津高郡(現岡山市北区)では、鎮圧隊の発砲で死傷者も出た。30代の青年30人あまりが逮捕され、最大5年の流刑や徒刑(労役)に処せられている。
  
 遠いエチオピアの政情不安のニュースを聞いて、「アフリカは危険でたいへんだ。日本は平和でよかった」と思った人もいるかもしれない。しかし、権力に立ち向かう民衆運動が圧倒的な国家の力の前に屈服させられてき歴史は、まさに日本人が経験してきた道でもある。

 一揆の嵐が吹き荒れた美作では、その後、自由民権運動が広がりをみせる。かつて庄屋や村役人として糾弾された豪農のなかから民権運動を率いる指導者が生まれ、国会開設請願運動や村落再建のための結社の動きへとつながった。明治から昭和初期にかけて、小作料の減額などを要求する小作争議が頻発すると、農民運動も盛んになった。暴力的な対決を避けながらも、生きるための「闘争」が続いてきたのだ。

 エチオピアでは、いまも多くの血が流されている。この抵抗運動の先に、いったいどんな未来が開けるのか。そのかすかな希望を探るために、もう少し岡山の民衆史を紐解いていこう。 
 


1871(明治4)年11月25日の夕刻、磐梨(いわなし)郡内10数カ村の農民約500人が集まり、県南四郡農民騒動の発端となる決起集会が開かれた阿保田(あほだ)神社(岡山市東区瀬戸町万富)。農民たちは、この場で夜を徹して歎願書を書き上げた。


参考文献・URL
ひろたまさき・坂本忠次(編)1984『日本民衆の歴史・地域編1 神と大地のはざまで--岡山の人びと』(三省堂)
清野忠昭 2004『忘れられた農民一揆』(手帖舎) 
Human Rights Watch「エチオピア:抗議集会の弾圧で数百人規模の犠牲」(https://www.hrw.org/ja/news/2016/06/16/291041

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

バックナンバー