セトウチを行く

第13回 国家に抗する2(岡山、不受不施派)

2016.10.31更新

 岡山に来て、よく耳にするフレーズがある。「岡山は災害がすくないから、岡山県民は○○」という言葉だ。「○○」には「のんびりしている」とか、「まとまりがない」とか、いろんな言葉が入る。

 たしかに地震はすくない気がする。岡山で暮らしはじめて1年半ほどたつが、地震の揺れを感じたのは、一度あったかなかったか、という程度。東京にいたときは、いつも関東のどこかで地震が起きていた印象がある。ちょうどこの原稿を書いていた10月21日の鳥取県中部地震は、はじめて大きな揺れを感じる地震となった。

 ただ、文化人類学を学んできた者としては、「岡山は災害がすくないから・・・・・・」という言葉をそのまま真に受けるわけにはいかない。「県民性」や「国民性」は、そう単純ではないからだ。

 そもそも「岡山」というまとまり自体、明治以降にできたものでしかない。古代、「吉備国」といわれたこの地は、7世紀後半に備前・備中・備後の三国に分割され、すぐに美作が備前からわかれた。江戸期も、たくさんの幕府領や旗本領、小藩にわかれていたため、明治の廃藩置県直後には14あまりの県が乱立している。もともと、ひとつにまとまってなどいなかったのだ。

 「災害がすくない」も疑わしい。岡山の地図をひろげると、「龍王山」など「龍(竜)」の文字のはいった山があちこちにあるのが目につく(調べてみると40座ほどありそう)。「龍」は、昔から水に関係の深い神様だ。おそらく水神様である龍王に山頂で火を焚いて雨乞いをしたのだろう。真庭市阿口にある龍王山には、1590(天正18)年の大干ばつのとき、山頂で雨乞祈願をしたら雨が降って豊作になったため、龍王神社が建立されたという由緒が伝わっている。
 
 いまは「晴れの国」をウリにしている岡山だが、農業が中心だった時代、雨が降らない「干ばつ」は、深刻な「災害」だったはずだ。用水路がはりめぐらされ、農業にかかわらない人が増えるなかで、最近になって「岡山は災害がすくない」という言葉がリアリティをもちはじめたのだろう。

 「地震」についても、すこし調べれば、過去に大きな被害を経験していたことがわかる。1946(昭和21)年の昭和南海地震では、震源から遠く離れた岡山県南部で最大震度6を記録し、沿岸部の埋め立て地を中心に、死者52名、負傷者157名、全壊家屋1200戸、半壊2346戸という被害がでた。この地震のことを岡山に長年住んでいる人に話すと、きまって意外な顔をする。戦後のことなのに、すでに住民にはその実感がない。

 歴史を知らないまま、ぼくらは根拠のない自己像をつくりあげてしまう。前回、書いた「農民一揆」のような民衆の歴史は、とくに忘れ去られるのがはやい。今回は、岡山で起きた民衆弾圧のなかでも、苛烈をきわめた日蓮宗・不受不施派への弾圧とそれへの抵抗について書こう。

 岡山は「宗教」とも縁が深い。これも、あまりイメージにないかもしれない。浄土宗開祖の法然も、臨済宗開祖の栄西も、岡山で生まれた。幕末三大新宗教(天理・黒住・金光)のうち、黒住教と金光教は岡山でつくられた。日蓮宗は「備前法華」といわれるほど盛んで、なかでも幕藩体制のもと弾圧されつづけた不受不施派が根強く残ったことで知られる。

 不受不施派とは、僧侶が信仰をもたない者から供養を受けず(不受)、信者も他宗の僧や寺社に参詣や布施をしない(不施)、という日蓮宗の宗法を堅持した一派だ。秀吉が各宗派に100人ずつ僧を出させ、豊臣家先祖の千僧供養を求めたとき、京都・妙覚寺の日奥はただひとり、日蓮宗信徒ではない秀吉の要請に応じるべきではないと主張した。のちに家康からの千僧供養の要請も拒絶し、対馬への流罪となった。

 日奥が開いた不受不施派は、日蓮宗内部の対立を深めた。国主の供養だけ例外的に認める「受不施派」は、幕府に不受不施派の不当を訴え、その教えが広まることを阻もうとした。1637(寛永14)年にはじまる島原の乱を機に、幕府も宗教への統制を強めた。人びとが禁制の宗教を信仰していないことを各寺院に請け負わせる寺請制度をつくり、その調査である宗門改(しゅうもんあらため)を諸藩に徹底させる。

 1665(寛文5)年、幕府は全国の社寺領地を調べ、徳川将軍が供養として与えた土地を受けとった証文の提出を求めた。不受不施派の寺院は、信者でない将軍家から供養を受けとったと認めるわけにはいかない。証文の提出を拒んだ結果、不受不施派は禁制となった。その後、各地で大弾圧が始まる。

 日奥は、師匠の日展が岡山出身だったこともあり、三度ほど岡山を訪問している。それで岡山には京都・妙覚寺の末寺も多かった。また、備前金川の松田氏の菩提寺だった妙国寺が、1661(寛文元)年に不受不施の立義を堅固に守るべきとする掟をつくるなど、不受不施の教えが深く根を下ろしていた。

 1666(寛文6)年、儒教を重視する岡山藩主の池田光政は、全国にさきがけて不受不施派の徹底した弾圧をはじめる。313の寺を廃寺とし、僧585人を追放した。このとき妙国寺も廃寺となった。備前各地では、弾圧に抵抗する動きも起きる。宗門改を拒絶して斬首されたり、不受不施を貫くために断食をして死を選ぶ僧たちもいた。一般信徒の多くは、表向き他宗派の寺社に頼んで宗門改を受ける「内信」というかたちで隠れて信仰を守りつづけた。地下組織をつくり、不受不施派の僧を隠れ屋の庵などにかくまった。

 「寛文の惣滅」といわれる大弾圧にもかかわらず、不受不施の信仰は残った。1750年代の宝暦年間には、備前に2万から3万の不受不施派の信徒がいたといわれる。地下で活動していた各地の内信組織もしだいに統一され、全国的な組織化も進んだ。不受不施の禁令がたびたび出され、強制的な改宗も行われるが、信徒の数は減らなかったのだ。明治に入り、岡山各地に不受不施派の寺院が再建され、いまも多くの信徒が信仰をつづけている。

 たび重なる弾圧に命を賭けて抵抗し、地下組織をつくって団結して法難を乗り越えた人びとの生きざまには、「のんびりしている」とか「まとまりがない」といったイメージとは異なる岡山の民衆の姿がある。かえりみられなくなった歴史の断片に目を向けることで、まるで違う自己像を再想像できる。この想像力の拡張が、ぼくらが違った未来を構想するための礎になる。

 エチオピアでは、10月8日に政府が非常事態宣言を発令した。インターネットやSNSへのアクセスが遮断され、デモを行うことも、抗議のポーズをすることも禁止された。その1週間前、オロミア州の町で祝祭日に集まった群衆に治安部隊が催涙弾などを発砲し、逃げ惑う群衆が折り重なって倒れ、55人の死者がでた。政府への抗議活動が再燃し、外国資本の工場が襲撃されたり、アメリカ人の研究者が群衆の投石で死亡したりする事件も起きていた。混迷する事態に、まだ出口はみえない。

 国民を守るはずの国家が国民の命を奪う歴史がくり返されている。この矛盾をどう乗り越えたらよいのか。この問いは、現代の日本に生きるぼくらにも無縁ではない。



1897(明治30)年に再建された妙善寺(岡山市北区津島)。岡山市一帯に信者をもつ不受不施派の有力寺院。もともと真言宗の寺だったが、1336年に大覚大僧正がきて、法論のすえ日蓮宗に改宗したと伝わる。1665年の弾圧で無住寺となり、1755年にはすべての堂宇が廃棄されていた。岡山大学のすぐ近くにあり、毎朝6時に鐘の音が響いてくる。


参考文献・URL
安藤精一 1976『不受不施派農民の抵抗』(清文堂出版)
市川俊介 1968『岡山の寺社仏閣』(岡山文庫82)
ひろたまさき・坂本忠次(編)1984『日本民衆の歴史・地域編1 神と大地のはざまで--岡山の人びと』(三省堂)
岡山神社庁HP「岡山県の神社」(http://www.okayama-jinjacho.or.jp/

  

 

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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