セトウチを行く

第14回 アートの島からみえる世界(多度津町・高見島、三豊市・粟島)

2016.11.29更新

 瀬戸内国際芸術祭が閉幕した。3回目となる瀬戸芸は、春(3/20〜4/17)、夏(7/18〜9/4)、秋(10/8〜11/6)の108日間にわたって開催された。前回につづき、のべ100万人をこえる人がセトウチの島々を訪れたそうだ。

 岡山に来てはじめての芸術祭なので、はりきって3月に前売りの作品鑑賞パスポートを購入した。2010年の第1回以来だ。春には宇野港、夏に小豆島、秋に高見島、粟島、豊島、男木島をまわった。

 子連れだと、たくさんの島を船で移動しながら歩くのは、たいへんだ。車で行ける宇野港や小豆島はいい。豊島もレンタカーを借りられる。ただ、いずれも行ったことのある場所なので、知らない島にも行ってみたい。2016年10月、塩飽諸島西部の高見島と粟島を訪ねた。

 満濃池のキャンプ場に前泊する。この満濃池は大宝年間(700〜704)につくられ、空海が修築にたずさわったという日本最大のため池だ。池の横に「国立讃岐まんのう公園」という立派な公園が整備されている。

 翌朝、「こんぴらさん」で知られる琴平を通って多度津港へと向かう。温泉街に車がさしかかると、道の両側からおじさんが次つぎと出てきて、手招きをする。「こちらにどうぞ〜」。駐車場の客引きのようだ。昭和のまま時代が止まったかのような不思議な雰囲気。四国は訪れるたびに、はっとさせられる。本州とはどこか時間の流れが違うのだ。

 高見島へのフェリーの出港まで1時間ほどあった。案内所で「近くに公園とかないですか?」と訊ねる。地元のボランティア・スタッフの女性は「このへんは港だからね・・・・・・」と困り顔。裏に回ると、遠くの岸壁に巨大な貨物船が停泊し、そこに何本も背の高いクレーンが伸びている。子どもが遊びまわるような場所ではなかった。

 堤防のそばで娘たちにおにぎりを食べさせ、海を眺める。灰色の海面にゆらゆらとクラゲが浮かぶ。四角い傘からのびる長い4本の触手を揺らして桟橋のほうに泳いでいく。「ほら、変わったクラゲがいるよ」と、娘たちを呼ぶ。5歳の上の娘が興奮ぎみに声をあげる。「あっ、あっちにもいる!!」。目をこらすと、桟橋の下にいくつも同じクラゲがいる。「あっちにもぉ!」と2歳の次女がまねをする。帰って調べたら「アンドンクラゲ」という海水浴場で人を刺すクラゲのようだ。

 案内所に戻ると、大勢の人がバスから降りてくる。さっきまでがらんとしていた案内所は人であふれ、桟橋にも列ができはじめる。若い女性やカップル、家族連れや初老の夫婦もいる。アジア系も含め、外国人の姿も目立つ。6年前の1回目にくらべて、芸術祭を訪れる人の幅がぐっと広がった印象だ。

 観光客を満載したフェリーが静かに港を離れる。晴れあがった青空に秋の筋雲が薄くひろがる。さきほど見えた大きな貨物船の船尾には"AFRICAN BARI BIRD"の文字。アフリカと往き来しているのだろうか。多度津は世界の海とつながる港湾なのだ。進行方向に高見島が見えてくる。お椀を伏せたかたちで、ちょうど讃岐富士が海に浮かんでいるかのようだ。

 名前のとおり、高見島は塩飽諸島でもっとも標高が高い。山の名は「龍王山」。ここも雨乞いと関係が深く、漁師が大漁を祈願する龍王宮が祀られている。渇水も多かったようで、偶然にも「満濃池」にちなんだ「満濃井戸」という共同井戸が島内にあった。かつて水に困った島の人びとは満濃池から水を一升瓶に入れて持ち帰っていた。あるとき、ひとりの年寄りが水の入った一升瓶を落として割ってしまう。その水がこぼれた場所を掘ると清水が湧いたと伝わる。

 港で大勢の客が船から降り、いっせいに歩き出す。その勢いに圧倒されて、みんなとは逆のほうに向かう。細い路地に入ると、小さなお店がある。その前に白い子猫がじっと佇む。近づいてカメラを向けても、まったく動かない。店番でもしているつもりなのだろうか。人が近づくとすぐに逃げ出す町の猫とは風格が違う。

 1時間ほどで粟島に向かう船が出る。港近くの作品をいくつか観て、早めのお昼をとることにした。島唯一の民宿の隣では、漁師さんと思われる若い男性たちが集まって、サザエなどを焼いている。道行く人に「いかがですか〜」と声をかける姿に、どこか恥じらいがある。すぐ向かいの公民館には地元の20〜30代の男女がたむろしている。高見島では、終戦後1000人を超えていた人口が、31世帯・43人(2010年)まで減少した。芸術祭にあわせて帰島している人もいるかもしれない。

 近くの食堂では、アジア系の女性が店の前に立っている。ベトナム人の実習生だろう。瀬戸内海の漁業は、かなり外国人技能実習生に依存している。高見島は、第11回で紹介した本島と同じく、船方として自治を認められた「人名」のいた島で、いまも海に生きる漁業が中心だ。セトウチの春の風物詩である「イカナゴ」の漁が盛んだという。

 港に戻ると、すでに長蛇の列。今度は、古びた小さな船に乗り込む。高見島〜粟島間は、いつもは運行していない。高齢の船長さんがマイクを手に「詰めて座ってくださいよー。みんな座れませんよぉー」と何度もくり返す。「後ろの甲板、座ってもええけど、波かぶるよぉ」と付けくわえ、みんな笑顔になる。

 20分ほどで粟島に到着。粟島は、3つの半島がつながる船のスクリューのようなかたちをしている。人口は、2010年時点で280人あまり。船を降りると、女性スタッフから手描きの「AWASHIMAマップ」を受けとる。笑顔の猫の絵の横に「ようきたニャー」とある。島に一歩足をふみ入れただけで、来訪者を歓迎するあたたかい雰囲気が感じられる。

 粟島の猫も、大胆だ。道の真ん中にごろんと横になったまま動かない。若い女性たちが代わる代わる足を止め、そばにしゃがんでカメラを向ける。撮られているのがわかっているのか、ポーズをとったままじっとしている。猫は、自由でおだやかな島のシンボルのようだ。

 この粟島には、海洋記念館という美しい洋館がある。かつて海運業でさかえた粟島では、1897(明治30)年、粟島村会議員が中心となって日本初の海員養成学校である村立粟島海員補習学校をつくった。1940(昭和15)年に国立の商船学校に昇格し、戦後も国立粟島海員学校として、1987(昭和62)年の廃校まで、商船大国の日本を支える上級船員を輩出しつづけてきた。いまも島には世界の海を旅した元船乗りたちが暮らしている。

 「塩飽大工」で知られる本島にも、粟島と同じ1897年に、大工の技能を学ぶ組合立の塩飽補習学校がつくられ、のちに塩飽工業学校と改称された。笠島集落にある尾上神社は、この工業学校の生徒たちの手によって建造されたそうだ。セトウチの島々は、中世や近世の歴史の舞台となっただけではない。明治以降の近代化においても、時代の流れの先を読みながら、建築や運輸といった日本の重要産業に欠かせない人材を供給しつづけてきたのだ。

 2時間ほど粟島を歩きまわり、ふたたび高見島に戻る。まだ見ていなかったいくつかの作品を鑑賞する。下の娘は船のなかで寝てしまった。急な坂道をベビーカーを押してのぼり、高台にある一軒の古民家にたどりつく。海に面した屋敷の庭がオープン・カフェに改装されている。息をのむ景色だ。遠くに多度津港のクレーン群がくっきりと見える。讃岐富士も、瀬戸大橋も、行き交う大型船も、すべてが一望のもとに見渡せる。島の人には、ここから世の中の動きが、はっきり見えていたのだ。そんな気分になる。

 娘たちは「子どもパスポート」にスタンプを押すのに夢中になって、アート作品を観賞しながらの島旅を楽しんでくれた。もちろん大人も、主催者の思惑どおり、ふつうは足を運ばない島のなかをずいぶん歩き回って、「アート」だけではない島の魅力にふれることになった。それにしても芸術祭の期間中、どの島も大勢の人であふれていた。国内外の多くの人が船で移動するしかない島めぐりに惹きつけられている。セトウチの島々からは、次の時代に何が求められているのか、もうその先が見えているのかもしれない。



高見島の路地にて。海の向こうに「讃岐富士」と呼ばれる飯野山が見える。


参考文献
戸所隆 1994「船員の島・粟島をとりまく立地環境と空間構造の変化」『立命館大学人文科学研究所紀要』62
塩飽史談会(編)2011『塩飽史年表』
瀬戸内海歴史民俗資料館(編)1982『本四架橋に伴う島しょ部 民俗文化財調査報告(第2年次)』(美功社)
徳島文理大学文学部 2001『徳島文理大学文学部共同研究 塩飽諸島』(高遠印刷)

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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