セトウチを行く

第17回 吉備の海1――古代の息吹(岡山市・倉敷市・総社市)

2017.03.13更新

 岡山は、空が広い。高い山や建物があまりないし、市街地は電線の地下埋設も進んでいる。ずっと平坦な平野がつづいているので、全天の空が見渡せる。晴れあがると、とても気持ちがいい。

 この岡山市から倉敷市にかけての「平野」は、かつて「吉備の穴海」と呼ばれる海だった。児島半島から瀬戸大橋が架かる鷲羽山へと至る峰々は「吉備児島」という大きな島で、『古事記』の国造りの神話にもその名が出てくる。沖の吉備児島と陸の吉備高原にはさまれた「吉備の穴海」は、巨大な内海だったのだ。

 この古代の地形を念頭におくと、吉備の歴史がよく見通せる。全長350メートルもある前方後円墳の造山古墳も(同じく286メートルの作山古墳も)、五重塔で有名な備中国分寺も、吉備津神社などの古い神社も、いまは内陸部を通る旧山陽道も、すべてかつての海岸線からほど近い場所にあった。

 なぜ吉備が日本の古代史で重要な位置を占めてきたのかも、この穴海の存在から想像できる。瀬戸内海を移動してきた渡来系の人びとや交易船にとって、大きな内海は荒天を避けたり、風を待つ絶好の港だったはずだ。

 『古事記』や『日本書紀』にも、重要な「港」としての吉備の穴海の姿が垣間みえる記述がある。初代天皇の神武天皇が日向を出て東征したとき、宇佐(大分県)や安芸(広島県)をへて、吉備の「高嶋宮」に数年間滞在して、船や兵糧をたくわえた。史実とは限らないが、現在の児島湾に浮かぶ高島(岡山市南区宮浦)が候補地とされる。少なくとも吉備が古くから瀬戸内海航路の重要な中継地であり、優れた造船技術をもつ人びとがいたことがうかがえる。

 『日本書紀』には、第21代・雄略天皇の世に、吉備の有力者がたびたび朝鮮半島に派遣されたことが記されている。彼らが技術者集団を略取して連れ帰ったことや、吉備一族と現地女性とのあいだに生まれた子である「吉備韓子(きびからこ)」が、日本の朝鮮半島外交の窓口である任那日本府で影響力をもっていたことなども書かれてある。大和朝廷の支配が強まるなかでも、吉備は独自に海をとおして外国と交流し、いち早く大陸の高度な技術にふれてきたのだ。

 神話の世界だけではない。実際、弥生後期としては最大の墳丘墓として知られる楯築遺跡の近くから、昔の波止場の遺構(上東遺跡)が発見されている。倉敷市北東の内陸にあるこの地域は、5世紀前半につくられた造山古墳からも近く、古代吉備国の中心地でもある。波止場に立ち寄った船からは、巨大な古墳群が正面に見えたに違いない。吉備の勢力を誇示するにはうってつけの場所だったのだ。

 楯築遺跡を発掘した近藤義郎氏(岡山大学名誉教授)によると、地元で「楯築さん」と呼ばれてきた丘の上には、かつて楯築神社があり、墳丘墓から出たと思われる大きな石彫品が御神体として祀られてきた。「亀石」と呼ばれるその石は、重さが約350キロもある。「弧帯紋」という渦巻状の流線模様が施され、人間の顔の線刻もあった。

 2世紀後半から3世紀前半の弥生時代末の遺跡が、現代に至るまで地域の人びとの信仰の対象とされてきた。その歴史の連続性には驚愕する。この亀石を御神体とする楯築神社は、1909(明治42)年に、すぐ近くの鯉喰神社に合祀され、社殿も解体された。亀石だけは数年後に戻され、地元の人が「楯築さん」につくった祠に納められた。いまも地域の氏神として崇敬されている。

 合祀先の鯉喰神社は、岡山の人なら誰もが知っている「温羅伝説」に由来する神社だ。吉備津神社の縁起によると、第7代・孝霊天皇の皇子である五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)が、百済から飛んできたとされる「温羅」の討伐に遣わされる。ミコトは、まず現在の吉備津神社のある中山に陣どり、楯築に石楯を築いて砦となした。楯築遺跡の墳丘の上には、そのときの石楯とされる高さ2〜3メートルの石板がいまもサークル状に残されている。

 ミコトの放つ矢は、いずれも鬼神の矢にあたって海中に落ちた。その弓矢を祀っている矢喰宮が、足守川のそばにある。ここにもミコトの矢が姿を変えたという巨石がいくつも残されている。ミコトが神力をあらわして二矢を同時に放つと、一矢がついに温羅の左目に突き刺さる。流れ出た血で川は真っ赤に染まった。総社市阿曽から足守川に流れ込む血吸川がその遺跡とされる。

 温羅は雉に姿を変え、山中に隠れるが、ミコトは鷹となって追いかけ、温羅は鯉になって血吸川に姿をくらます。ミコトは鵜となってこれを喰いあげた。それが矢喰宮から足守川を下ったところにある鯉喰神社だ。温羅はついに降参し、「吉備冠者」の名をミコトに献げたので、以降、ミコトは「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」と名乗った。

 この吉備津彦命を主神として祀り、温羅の首を埋めたとされる御釜殿があるのが、岡山随一の古社である吉備津神社だ。吉備を平定した吉備津彦は、神社のある中山の麓に茅葺の宮をつくって吉備を統治し、281歳で亡くなる。中山の山頂にある前方後円墳が吉備津彦の御陵とされる。

 釜殿の竃の土中に埋められた温羅の首は、その後13年にわたってうなり声を上げつづけた。ある晩、吉備津彦の夢に温羅があらわれ、こう告げる。「わが妻、阿曽郷の祝(ほふり)の娘、阿曽媛(あそひめ)をして釜殿の神饌(みけ)を炊かしめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給えば、幸あればゆたかに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう」。これが現在までつづく鳴釜神事のおこりとされる。

 この鳴釜神事は、上田秋成の『雨月物語』にある怪奇小説「吉備津の釜」のモチーフともなった神秘的な神事だ。2015年9月に吉備津神社の御釜殿を訪れたときも、「阿曽女」と呼ばれる巫女の女性が竃のそばに神妙な顔をして控えていた。観光気分で御釜殿のなかを見回していると、「まず御釜様に向かって拝礼してください!」とぴしゃりと言われてしまった。本殿からの長い回廊でつながる御釜殿は境内のなかでもひときわ特異な空間だった。

 古来、宮中をはじめ、社寺や貴族の館には釜殿があり、竃神を祀る神聖な場所とされてきた。釜を焚き、湯を沸かすときに釜が鳴ると、それを不吉な前兆とする風習は、王朝時代から中世にかけて広くみられた。吉備津神社の鳴釜神事も室町時代の古文書に出ている。江戸期に入ると全国にも知られ、数々の文献で言及されるようになる。

 この御釜殿の釜が古くなると、代々あたらしい釜を寄進していたのが、阿曽村(総社市西阿曽)の鋳物師たちだった。江戸期の阿曽村には、つねに9軒ほどの金屋があり、多くの鋳工たちが釜や鍋、鍬、梵鐘までつくっていた。この阿曽村は、血吸川が流れる集落だ。製鉄のための砂鉄が酸化して川が赤く染まることがあったかもしれない。

 足守川をはさんで東側に吉備津神社、西側に造山古墳や楯築遺跡、足守川沿いの矢喰宮や鯉喰神社。いずれも半径2キロ圏内におさまる範囲に古代の歴史と伝説にまつわる旧跡が集中している。少し山のほうに足をのばせば、朝鮮式の古代山城である鬼ノ城や、その山の麓にある阿曽郷、最上稲荷や備中高松城など、吉備の歴史や文化を身近に感じられる場所が至る所にある。

 車で国道沿いを走れば、どこにでもある地味な田園風景でしかない。京都や奈良のように、多くの観光客が訪れるわけでもない。でも、じっくりあたりを見まわすと、古代から連綿と途切れることなく人びとの営みが続いてきたことがわかる。神話にまで遡る歴史の舞台のなかで、地元の人はそれを特別だとも思わずに暮らしている。地味だけど、ディープな岡山、おもしろい。さらに掘り下げていこう。 



吉備津神社の本殿から御釜殿へとのびる回廊。


参考文献
近藤義郎 2002『楯築弥生墳丘墓』(吉備人出版)
藤井駿 1973『吉備津神社』(岡山文庫52)
吉田晶 1995『吉備古代史の展開』(塙書房)

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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