仕事場のデザイン

第3回 トレスコ

2013.06.07更新

 はじめてデザイナーという仕事の現場を体験したのは19歳の時。大学1年の夏休みに、予備校の恩師の経営するデザイン事務所でアルバイトさせていただいた。1992年である。

 そこでは「版下」と呼ばれる台紙をつくる作業を担当した。「版下」は、いわば印刷の原版だ。専用の台紙に、文字やロゴを張りつける。写真が入る場所には四角い罫線を引く。貼りおわったら、台紙をトレーシングペーパーでくるんで、その上から文字の色や写真のトリミングなどの印刷指定を書込む。

 色指定では、下の図形を透かして輪郭を赤ペンでなぞり、輪郭線から引き出し線を出して、その先にCMYKの数字を書込む。写真を使うときは、写真の方もトレーシングペーパーでくるみ、専用の器具で、版下に描いた四角形と同じ比率の四角を描く。この四角は、写真のどの部分を使うかを示すもので、正確でなければならない。版下に描いた四角と、写真に描いた四角の対角線を定規で測り、写真の倍率を書込む。

 こういった細かい作業をひとつひとつ繰り返し、ようやく1ページ分の版下が完成する。台紙にパリっと貼られたトレーシングペーパーの上に、専門的な図形と数字が並び、その下にうっすらと切り貼りした文字が透ける。キレイに仕上がると、それだけで美しかった。

 版下が仕上がると、担当のデザイナーに最終チェックをしてもらう。ここで文字の位置や、指定の変更があると一から作り直しだ。ただ、それはそんなに苦ではなかった。大変なのは、文字を「拡大縮小」する場合である。

 現在も「写植」という言葉は残っているが、これは「写真植字」の略だ。文字というのは写真の一種だった。デジタルの世界で「拡大縮小する」というのは、「同じもの」が大きくなったり小さくなったりすると考えがちである。しかし本来、オリジナルと、拡大率101%の文字と102%の文字は、まったく別々の存在だ。文字を大きくするということは、そういう写真を、もう一枚現像するということだった。

 グラフィックデザインの事務所にはたいてい、そのための機械があった。通称トレスコ。正式にはトレーシングスコープという。
 トレスコは巨大なカメラだ。カメラを下に向け、感光面が机になっていると想像すればわかりやすい。上部は暗幕で覆われており、中にガラス製の机がある。その下にはレンズがついている。下部にライトと台座があって、オリジナルをそこに置くと、レンズを通して、上部のガラス机の上にその文字が映る。

 両サイドにハンドルがついていて、片方のハンドルを回すと、文字が大きくなったり小さくなったりする。もう片方のハンドルを回すとピントが合う。暗幕を閉め、必要な大きさにズームし、目を凝らして文字にピントを合わせたら、像の大きさに合わせて印画紙を切り、その上に載せる。

 手元のボタンを押すと、露光がはじまる。印画紙に像が焼き付けられたら、それを机の上の小さめの現像液にひたす。数秒から1分ほど待つと像が現れ、定着液の塗布されたシートと張り合わせてローラーで圧着する。しばらく待ってから定着液のシートを剥がし、水で洗浄し、乾かす。そうやってようやく「拡大された文字」が手に入るのである。

 アルバイト先の事務所は、長野県松本市の六九商店街という商店街の脇にあった。オフィス棟とギャラリー棟に分かれていて、版下作業をするスペースはオフィス棟の3階、トレスコは20メートルほど歩いた商店街の中のギャラリー棟の隅に置かれていた。

 拡大縮小の指示があると、オリジナルを手に階段を降り、商店街を抜けてギャラリーのトビラを開け、その奧のトレスコの中に入る。外の明るさから一転、暗幕に囲われた暗い世界。中は下からのライトに照らされて熱い。現像用の液体には独特の酸っぱい匂いがあって、そこへ自分の体臭が加わる。5分もするとガラス板の上に汗が落ちはじめ、息が詰まってハァハァと呼吸が荒くなった。これがグラフィックデザイナーの仕事場というものか。

 ある時、カスレとツブレのバランスの難しいロゴがあった。地元の呉服屋さんのロゴだったと思う。適正な露光時間だと、外側の罫線が何度やってもカスレる。しかし、露光を長くすると、中の細かい住所の文字がツブレる。これが、何度やっても両立しないのである。

 いったいどれぐらい経ったのだろう。暗闇の中では時間もわからない。ガラス台の上は失敗した印画紙でいっぱいになって、手は現像溶液でベタベタ、机は汗でヌルヌル、印画紙も湿気と熱でヘニョヘニョになり、角に触ると層がめくれてケバケバに剥がれた。

 今度こそ、と思ったものがまたダメで、いや今度こそ、と思ったものがまたダメで、それでも今度こそと思ったものがまたダメだった。ケツの穴あたりに妙なうずきのようなものが溜まって、呼吸が早くなっていくのを感じる。俺はどうしてこんなところでこんなことをしているんだろう。暗幕を引き裂き、ガラス机を叩き割って、トレスコをバラバラに破壊したい衝動が全身に満ちた。

 落ち着け。露光をもう半秒短くしろ。もっと印画紙をガラスに密着させろ。深呼吸し、丁寧に作業を進め、これでダメならあきらめるしかないと思いつつ、もう一度現像器にかけた。はたして、現像液の中に浮かび上がってきたロゴは、罫線はカスレず、住所の文字もツブレていなかった。

 できた。暗幕を開いた瞬間のあの新鮮な空気。まぶしい夏の日差し。街路樹の葉っぱ一枚一枚が鮮やかで、商店街を歩く人々の顔が、妙に愛おしかった。ああ、世界ってどうしてこんなに輝いているんだろう。オフィス棟へ戻る道を駆けながら、僕は本気でそう思った。そして、意気揚々とオフィス棟の2階の席につき、台紙に貼ろうとして気がついた。



「拡大してねーじゃねーか!」

 カスレに気を取られて、本来の目的を忘れていたのである。目の前にあるのは、2枚のまったく同じサイズの同じロゴであった。

 現在、事務所の若いスタッフは、コンピュータ上でパチパチと数値を入力するだけで、好きなように文字を拡大縮小している。彼らにとって、101%の文字と102%の文字は、同じ「オブジェクトデータ」なのである。まあ、それはそれで、そういうもんだよなと思う。

 同年代でさえ、トレスコを知る人はほとんどいない。トレスコを知っているからといって、それが役に立ったことなど一度もないし、今の事務所で使いたいとも思わない。それでもたまに、あの輝ける世界を思い出すことがあって、その世界だけは、いつまでたっても古くならない。


第3回 トレスコ

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寄藤文平(よりふじ・ぶんぺい)

アートディレクター/イラストレーター
1973年、長野県生まれ。武蔵野美術大学中退。
広告のアートディレクションとブックデザインを中心に幅広く活動中。ミシマ社ロゴの生みの親。

主な仕事に、JTのマナー広告「大人のたばこ養成講座」「マナーの気づき」、東京メトロの企業広告「We are the Tokyo Navigater」、メトロ文化財団のマナー広告「家でやろう。」シリーズがある。主な著書に『死にカタログ』(大和書房)、『元素生活』(化学同人)、『ラクガキ・マスター』、『絵と言葉の一研究』(以上、美術出版社)、共著に『大人たばこ養成講座』全3巻、『ミルク世紀』(以上、美術出版社)、『ウンココロ』(実業之日本社) 、『地震イツモノート』(木楽舎・ポプラ社)などがある。

Bunpei Ginza

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