仕事で少し傷ついた夜に

第8回 「会社員のステージと、壁にぶつかったときの対処」その2

2013.08.09更新

 前回、会社員のステージが「社会人」「ひとり立ち」「一人前」「主力」「マネジメント」「変革主導」「事業変革」「企業変革」の8つと、「専門家」「第一人者」の2つに分けられることをご説明しました。また、現在のステージから新しいステージに"転換=トランジション"するときに、何かしらかの壁にぶつかるのが通例で、僕個人を振り返ってみると、3つのトランジションで大きな壁にぶつかった苦い記憶があります。今回は「主力」→「マネジメント」への転換時、「マネジメント」→「変革主導」への転換時の2つのタイミングでの体験について、ご説明したいと思います。

■「主力」→「マネジメント」への転換でぶつかった壁

 僕が肩書きとして「編集長」になったのは32歳。それと同時に「マネージャー=組織長」という職位になり、メンバーの勤怠管理や業績査定を担当するようになりました。ハンコも与えられ、ある一定額の取引の承認を行うようになりました。しかし当時の僕は、週刊誌の編集記事を作る業務だけで手いっぱいで、そういった「組織長としてやるべき業務」が加わったことは正直"負荷"としか感じていませんでした。いまから思えば、「編集長」としてやるべき仕事と、「組織長」としてやるべき仕事の違いがそもそもわかっていなかった、とも言えます。

 「編集長」のやるべき仕事は、雑誌のコンテンツの全責任に加え、対外的なメディアの説明や広告メニューの開発、部数や印刷原価の調整などがあります。編集者としてキャリアを積んできた僕にとって「編集長」は憧れのポジションでしたし、編集の腕を磨き名前を売る、まさに絶好の機会と認識していました。また当時の『R25』は、フリーマガジンというスタイルでTV・新聞・雑誌・ラジオに次ぐ新たなマスメディアを目指し、かつフリーマガジン×交通広告のクロスメディア広告を積極的に開発するなど、外部からの注目度が非常に高かったこともあり、編集長へのプレッシャーは相当ありましたがそれ以上にやりがいも感じていました。

 一方「組織長」のやるべき仕事は、メンバーの育成をしながら組織全体の成果を上げていくこと。同時に会社のルールを理解し、組織の安定的運営のために労務やコンプライアンス、予算などの管理も必要となります。簡単に言えば、経営と現場のハブとなって組織を推進していく役回り。現場側から経営側への意識変化を求められる立場となります。当時の僕は、メンバー時代にはなかった(免除されていた)管理職的な業務が、かなり煩わしく感じていました。またメンバーの育成の観点も、自分が「編集長」の業務を高い意識で邁進していれば、周囲は勝手に学んで成長してくれるだろう、くらいに漠然と思っていた程度。会社のマネージャー研修で一通りのことは教わったものの、根本的な理解はできていなかったのです。

 「編集長」と「組織長」の違いを理解していない象徴的なエピソードが、「『R25』の制作ボリュームが増えても、すべてのページの企画立案、外部スタッフとの打ち合わせ、最終原稿チェックは編集長の自分が行うべき」としていたこと。すべてのページのクオリティに責任を持つのが編集長だから、当然そうあるべきだと思っていたのです。しかし、これは逆に言えば、自分以外の他の編集メンバーの能力を信用していないともとれる考え方です。実際、その当時の僕は「『R25』のブランドを担保しているのは自分自身。自分が面白いと思ったものだけしか信じない。それ以外は受け入れられない」と考えていました。

 企画の初期からかなり細かいところまで指示を出しているので、最終的な仕上がりで大失敗する企画は少なく、スピード感をもって大量のページを少人数の現場で回していくためには効率がよかったのは事実ですが、一方、編集メンバーを完全に自分のコマとしてしか見ておらず、自分の思い通りに動いてくれないと気に障る状態に近かったと思います。それでも育成観点が全くなかったわけではなく、目の前で企画のドラフトを作ったり、外部スタッフとのやりとりを直接聞く機会を与えていたので「そのうち覚えてくれるだろう」と思っていました。

 メンバーの能力を引き出しその成長を促進するためにも、メンバーが自分で考えて悩み動かし失敗する機会を提供しなければなりません。その機会なくして、メンバーが自律自転して動けるようになることはありません。当時の僕の行為は、失敗をさせないように先回りして細かな指示を出し、雑誌の質を担保する代償にメンバーの育成機会を摘み取っていた―――つまり「組織長」の役割を放棄していた、と言えるのかもしれません。

 その後、仕事のボリュームはますます増え続け、物理的に僕が全てをチェックする体制では回せなくなった時期が訪れました。記事の大半は2人の副編集長に任せ、自分は新しい領域の検討として、女性向けのフリーマガジンやwebサイトの立ち上げに時間を割くようになります。「編集長」として記事へのこだわりと自負心が強かった分、最も要だった企画会議の進行役を譲るときには寂しさがありましたが、「組織長」として組織の成果のためにメンバーを活かし成長させることが大切なのだと、"自分で手を下すことの限界"が訪れたことでようやく気がついたというわけです。

 プレイヤーとしての自信があり、自分にしかできない仕事をしてきた自負心の強い人ほど、「主力」→「マネジメント」への転換に苦労するようです。メンバーを持ったとしてもある程度の組織課題なら、自らのプレイヤーの資質で問題解決できてしまうので、メンバーの育成になかなか意識が向かないらしいのです。僕自身、この時期については環境の変化が激しく、目の前の課題を解決するのに精一杯だったのであまり鮮明な記憶がないのですが、もしもう一度やり直すことができるなら、もっとメンバーを信頼し育成しながら、編集部を組織として強くすることにチャレンジしてみたい。そう思っています。

■「マネジメント」→「変革主導」への転換でぶつかった壁

 「マネジメント」から「変革主導」への転換、といわれてもわかりにくいですよね。企業の規模によりますが、「課長」→「部長」への転換と捉えていただければわかりやすいかと思います。自分の部下に「マネージャー=組織長」がいる状態で、メンバーを直接指導する立場からマネージャーを通して実務を遂行する立場に変わるのが特徴です。

 僕に上記のような機会が訪れたのは、「編集長」が外れて代わりに「R25事業部長」という肩書きになったときに符号します。これまでは編集や広告コンテンツの責任者の立場で事業の運営方針に意見していたところから、営業や管理部門も束ねつつ、自らビジョンを打ち出し決断していくことが求められるようになったのですが、この時期が最も恥ずかしく、辛く苦い記憶が数多く脳裏に残っています。つくづく自分は視野が狭く、器量が小さい人間であることを思い知らされました。その中でも特徴的な2つのエピソードを書いてみたいと思います。

 まず一つめは、"これまで経験したことのない部門の判断・決断するときに、自分の成功体験や経験則を重視してしまう"です。僕は編集長時代から自分は営業経験がないものの、当時の営業グループが個人プレーや近視眼的な活動ばかりで、もっとプロセスを重視してチームとして安定的な成果を上げられるように変革すべきではないか、と思っていました。
 R25事業部長になって営業グループを管轄することになったときに、個人のプロセスを見える化し、より組織としての管理体制を強化することで"営業の変革を主導"していくべく取り組みをスタートさせます。しかしこれまでのやり方を正しいと思う現場の営業メンバーから強い反発があり、直属の部下である営業マネージャーからの信頼も得られない状態が続きました。何度も会話し変革の必要性を説くのですが、その場では「わかりました」と言ってくれるのに、何日経っても現場では実行されず反故にされてしまっている。少なくとも編集長時代には、僕の決断・判断に従ってくれていたはずなのに―――それまで自分が働きかけたことを反故された経験がほとんどなかったので、ものすごく混乱しました。
 あるとき一人の営業メンバーが「僕らにとって編集長は版元(雑誌の発行元)の偉い人なので、広告主と同じように立てなければいけない人種なんです。ヘソを曲げないようにうまく調整するのが、僕たちの仕事ですから」と漏らしてくれました。そのとき、僕は過去の編集長という立場から降りずに、営業部に自らの要望を押しつけていただけなんだ、と気づきました。営業は自分たちの上司というより、編集長あがりの厄介者が来たので、どうせわかってないからまぁ適当にいなしておこう程度に思っていたのでしょう。編集長時代に営業メンバーは自分を慕ってくれていた、だから自分が変革の必要性を説けば営業現場は納得してくれるはず―――そんな幻想が粉々になって散っていきました。
 それに気づいてから、逃げずに営業と向き合いつつ、変革への要望をとことん考え抜き突き詰めていくことができたら理想だったのですが、結局僕は中途半端なまま「営業に向いてないからしょうがない」などと自分に逃げ場を作ってしまった。今でも、あのときの自分がもっと強い当事者意識と変革への覚悟を持っていたなら、営業現場とももっとわかりあえ、一緒に変革を実行していく仲間になれたかもしれなかったのに、と後悔が今でも募ります。

 次に"担当外や専門外の決断を迫られたときに、自分の責任を回避しようとしてしまう"です。『R25』はフリーマガジンだけでなく、インターネット領域にもメディアを拡張しモバイルサイトやwebサイトを展開していました。同じ『R25』ブランドを名乗ってはいたものの、初期のころは僕個人のインターネット領域での関わりは限定的で、事業として目指す世界観も異なっていました。その後、いろんな紆余曲折がありつつインターネット領域も含めて僕が管轄することになりました。
 未経験の職種である営業よりも、同じメディアであるインターネット領域の方がやりやすいと思われるかもしれませんが、インターネットメディアを運営するために必要なスキルは、週刊誌を作るスキルよりも専門度が高く、しかも日々環境が進化するので常に学び続ける必要がありました。システムエンジニアのメンバーと会話しても、まったくちんぷんかんぷん。どんな指標を重視して運営していくべきかもわからないので、初期のころからあった指標をベースにモニタリングを開始するのですが、それを見ても良くなっているのか悪くなっているのかがわからない。これからのメディアはインターネットの世界で戦うことができなければ生き残れない―――その危機感だけは持っていたものの、あまりに専門外すぎるゆえに、フリーマガジンに比べて明らかに淡泊な関わりになっていたことは否めません。

 自分なりには、リクルート社内でネット化を推進し大きな成果を上げた後輩にヒアリングしたり社外の勉強会に参加するなど、少なくとも"何にもわからない"から"ちょっとはわかる"ようになる努力をしていましたが、それでも強い当事者意識でもって推進している状態にはほど遠い。不思議なことに、心の片隅に「これは元々自分が企画し立ち上げた事業じゃない」という気持ちがあると、現場に厳しい判断や決断が下しにくくなっていきました。つまり、少なくとも現場の意見を尊重し、現場を守ることだけは責任者としてまっとうしよう、と考えることに意識が向かい、インターネット事業のビジョンを描きつつ現場に変革を促していく責任や、経営としての厳格な判断をする責任から回避しようとしていたのです。
 インターネット事業への苦手意識は、いまでも残念ながら消えていませんが、少なくとも"責任の捉え方"と"当事者意識の持ち方"については、この苦い経験を通じて理解できるようになったと思っています。

 最後に。辛い時期に僕が呪文のようにつぶやいていたのが"逃げない・めげない・面倒くさがらない"という言葉。組織を統率したり変革を主導していくときには、これまでの経験則では絶対に解決できない、しかも二律背反した課題の解決を求められることが当たり前になってきます。担当外や専門外であっても決断を迫られ、その度に説明責任が発生します。場当たり的な対処法ではいつかは馬脚をあらわすことになるので、できるだけ事実情報を幅広く集めながら課題の本質がどこにあるかを考え抜き、ブレのない方針やビジョンへと昇華する必要がある。とにかく、「逃げたい」「めげる」「面倒くさい」ことの連続です。

 対立や葛藤を乗り越えることなくして、組織を統率し変革を主導することはできない―――それを学ぶために、幾度の、少しどころではない、傷つく夜があったのだと今は前向きに捉えるようにしています。

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藤井大輔(ふじい・だいすけ)

1973年 富山県生まれ。1995年 株式会社リクルート入社。

以来、編集・メディア設計職に従事し、主に『ゼクシィ』『ABROAD』『ダ・ヴィンチ』『住宅情報』『都心に住む』等に携わる。

2003年9月『R25』を立ち上げ、編集コンセプト・ネーミング・コンテンツラインナップを立案する。2005年4月『R25』編集長に就任。2012年3月まで『R25』フリーマガジン・デジタルメディア戦略担当。

現在はシニア向け温泉予約サービス『ゆこゆこ』の経営企画室長。著書に『R25のつくりかた』(日本経済新聞出版社)。

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