新人だった。

第10回 感動をありがとう?

2014.02.28更新

 こんにちは。
 相変わらず追い込まれる体質は変わっていませんが皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 先日、オリンピックが閉会してしまいましたね。
 ここは本当にロシアかと思うほど温暖に見えたソチ。正直ソチがどこにあるかさえ怪しかったのですが地図で見て、改めてロシアの国土の大きさに驚いてしまいました。

 それにしても今回のオリンピックも涙なくしては見られませんでしたね。例を挙げればキリがないのですが、なかでも浅田選手のフリーの演技は何度見ても涙が出てしまいます。
 演技の素晴らしさもさることながら、演技後の浅田選手の表情は、見ているこちらにも感情が伝わってきてしまうんですよね。
 メダルのあるなしに関わらず、極限まで努力することの素晴らしさや尊さを体中で表現してくれていました。

 そして、羽生選手、なぜあの若さであんなにしっかりしているんでしょう。震災復興に、自分が少しでも力になりたいと話していました。自分があの時代に何を考えて暮らしていたかを考えると、やはり世界で活躍する選手は人間力が違うなとただただ恐れ入ってしまう。

 また、同世代ということで密かに毎度応援しているのが上村愛子選手なんですが、彼女もまたあと少しでメダルに届かず残念でした。でも、あの滑りを見られただけで満足だと思えるような、そんなカッコイイ滑りだったのではないかと思います。

 あと、もう一人だけ、平野選手! あの高いジャンプは本当に素晴らしかったですね。
しかも15歳という若さで。ご両親は彼の為にスノーボードの練習場まで何時間も送り迎えをして献身的に支えてきたと聞いて、やはり環境って大事なんだなあと子を持つ親の一人として、この点にも改めて思いを致した次第です。
 子のために親としてどこまでやってあげられるか、という。頭に留めておかねば。

 さてさてここからが本題。
 エンディングで見かけた方もいらっしゃるかもしれません。
「感動をありがとう」
 この、正直あまりひねりがないプラスありきたりな言葉が(ごめんなさい)自分としては今ひとつしっくり来なかった。
 いったいなぜなんだろうと色々と考えあぐねていました。
 第一そんなこと言ってたら「じゃあお前は何ならしっくり来るんだよ」とお怒りの言葉が飛んでくるとも限らない。いや、ごもっともです。

 平たく言うとやっぱりありがとう、という気持ちは間違ってはないんです。そう、間違ってはいないんだけど決して「ストライク」じゃない。表現の制約上短い言葉でまるっとまとめなくてはならないから、そこからはみ出てしまうものが出てくるのは仕方のないことなんですが、とはいえ、ですよ。

 ちょっと厳密に考えてみた。

 確かに選手たちの姿に感動した。
    ↓
 でも、感動させてくれてありがとうなのか?
    ↓
 いや、そうではない。
    ↓
 ・・・

 わかった! 私の場合「ありがとう」に違和感があるんだ。感動したことを伝えるだけならそれほど違和感がないのにそれに対する感謝を伝えた途端、まるで選手たちは誰かを「感動させるため」にやっているような図になってしまう気がして、そこに納得がいかないんだな。
 もっと神聖な域で、命がけで日々努力を重ねているのではないかと。

 最近でこそ「感動を与えたい」と話している選手も時々お見受けするけれど、そういう人はまあそれで問題なし。それがモチベーションなんですから。
 でも、特にそうでない場合、スポーツはもっと個人に帰属するものでいいのではないかな、というのが個人的な見解。
 真摯に努力する姿や美しい演技、圧倒的なパフォーマンスに付随してそれらを見ている人たちを感動させるといった現象が起こるわけで、それらはあくまで副産物のようなものなのではないかと思うのです。
 もちろん大人な話をすれば、強化費がとかそのお金は一体・・・とか、いろいろともの申す方々もいるわけで、その辺は難しいところではあるんですけどね。

 そういえば、かつて、総理がただ一言「感動した!」といって沸いたことがありましたが、あれは名言だったってことだな。
 ではまた。

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倉野麻里(くらの・まり)

上智大学数学科卒。2002年テレビ東京入社。WBS6年、夕方ニュースMC5年担当するなど、入社以来報道畑を歩む。座右の銘は『何かを始めるのに遅すぎるということはない』うどん、鶏肉、奈良漬が好き。趣味は散歩、料理、旅行。

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