特集

Book! Book! Sendaiに行こう!(後編)

2011.06.30更新

7月4日まで行われている「BOOK! BOOK! Sendai」を紹介した前回
この取材中に、ある方との出会いがありました。

的場克己さん(仮名/57歳)は、ジュンク堂仙台ロフト店佐藤純子さんと本好きで繋がる仲良しです。
地元の市役所にお勤めで、生涯学習関連のセクションで仕事をしながら、
震災後は施設の復旧や避難所・仮設住宅のサポートなども担当されているそうです。
的場さんの「被災地をご覧になっていないのなら、行きますか?」というお言葉がきっかけでわたしは、
テレビでしか目にしたことのない被災地、避難所、仮設住宅を訪れてみることにしました。

「応援したい、という気持ちで仙台に来た人には、ぜひ見て帰ってほしい場所があります」

元気な仙台を見た次の日に見た景色は、言葉をなくすところばかりでした。

(取材・文:林萌)


「若林区を、ご存知ですか」

若林区

的場さんの車で、仙台駅周辺からまずは若林区の荒浜へ行きました。
荒浜は、3月11日地震発生後の情報錯綜するなか「200~300人の水死体発見」の第一報があった場所です。

若林区

若林区の都心寄りの地区

「若林地区は一番小さな区ですが、超高層ビル群の並ぶ都心から田園地帯、海辺まで広がっています。ですから、高層マンションで暮らすビジネスマンから海で漁をして暮らす方々まで、幅広いライフスタイルの住民を含んでいます。震災を経て、同じ若林区にいても住んでいる場所によって、極端に言うとそれこそ数十メートルの差で、生活環境や心の持ちように大きな違いを生んでいます。この地理的には狭い範囲でその幅の広さが生じていることが、対応の難しさにも繋がっています」


若林区

「ぼくは一年前、今の職場へ異動になる前にまちづくりの専門部署に所属していたのですが、そこでは仕事のひとつに『緊急時の住民向け広報』という役割がありました。津波警報などが出たときに広報車に乗り込み拡声器を持って、浜辺一帯で情報を伝え呼びかける仕事です。警報や注意報を知らずにいる住民はもとより、津波がくるならちょうどいい波になると集まるサーファーがいたり、カップルで津波を見に来ようとする人たちなどもいるので、僕も夜中や休日を含め、在任中に何回か出動しました。僕の異動後もこの仕事を部下のSくんとOくんが続けて担当していました。そしてあの日、今までで一番大きな地震が発生し大津波警報が発令され、ふたりは海へ向かって飛び出して行きました。荒浜へ向かう主要道は一本しかないから、きっと今走ってるこの道を行ったと思います。そして、それっきり行方不明となってしまいました。Sくんは若かったけどお孫さんがいて、孫煩悩なお酒好き。Oくんは写真がプロ級の腕前で、異動祝いにと自分が撮った風景や動植物の写真をカレンダーに仕立ててぼくにくれました。異動していなければあの日、たぶんぼくも海に向かっていただろうと思うと、いたたまれない気持ちになります」

東部高速道路の陸橋の下をくぐると突然視界が開け、潮の匂いがし、あちらこちらに傾いた電柱が目に入る。
しばらく進むと、テレビで見たあの光景が広がります。

若林区

若林区

「ここでは知的障害者の方が働いていました。軽度~中度の方が工房で和紙や和菓子をつくり、レストランも併設されていました。今の東北学院大学で先生をしていた島崎藤村が、仙台駅近くの下宿屋の二階で代表作『若菜集』の作品を書いた当時、街なかからでも遠い潮騒が聞こえたというエピソードにちなみ、『潮の音』という名のお菓子をつくっていました。風景とマッチするすてきな建物でした。ぼくはよく、右から三番目、ちょうどあの今黄色いテープが巻いてある柱のあたりの席で、よくごはんを食べていました。ここから見えるあの奥、まだ山のように瓦礫が重なる場所のあたりで、さきほど話したSくんとOくんが発見されたそうです。ちょうど49日にあたる日でした」


若林区

「荒浜です(注:ここは土日など車が多い場合規制が入る場合があります)。ここで毎年、サンドアートのイベントをしていましたが、今年の海水浴場の開設はないでしょうね。この近くにも同じ職場のスタッフの自宅だとか、ケーキ屋さんなどもありました。荒浜のケーキ屋さんといえばここだけで、人気がありました。海の景色はそう変わりませんが、西側に振り返るとびっくりするほど遠くまで見えます。防風・防砂林があったのですが、波に流されて木がかなり減ってしまいました。ここはいつ来ても、花が供えられています」

北上し、宮城野区蒲生地区へ。

「今日は大潮です。地盤沈下しているので、場所によっては道路まで水浸しになります。人口約103万の仙台の主力となっている下水処理場が破壊されたままなので、今、下水は最低限の処理を施したうえでやむを得ず海に垂れ流しの状況になっています。なるべく水を汚さないようにと行政が呼びかけているのは、そういった事情があります」


若林区

「ある避難所で話しかけてきたおばあさんがいました。聞くと、ここの小学校に通っていた子がいて、その子のお母さんとおばあちゃん、つまりそのおばあちゃんからすると子どもとお孫さんを亡くされ、これからふたりで生きていかなくてはいけない。なのに、その子はひいおばあちゃんを避けるようになってしまった。なぜなら、いなくなったお母さんとおばあちゃんのことを思い出すからのようだ、と悲しそうに語ってくれました。『野鳥と自然を友だちに』と掲げられた標語が、なんともやりきれない気持ちにさせます」

「もう少し北上したところに、七ヶ浜という町があります。ここに、ぼくが仕事や人間関係でつらいことがあると逃げ込んでいたカフェがありましたが、跡形もなく海のなかに消えてしまいました。今でもつらいことがあると、その跡地から海を眺めて過ごしたりします。『失う』ということは、こういうことなのだとはじめて知りました。ぼくは体も家も無事なのだけど、やはり被災者のひとりなのだと思いました。そういう人が、きっとたくさんいると思います」


夕刻が迫り、仙台港にほど近い高砂へ。

「最後に、他とはちょっと違う避難所へご案内しましょう。数多くの住民が避難したけど指定避難所じゃなかったために支援物資が不足し、独自に食料を集めるなどの運営に努めた高砂市民センターです」

若林区

「高砂市民センター館長の浅見です。ここでは現在70~80名の避難民の方がいますが、一時は1200名いました。食料だけで1日三食、毎日計3600食必要でした。市からの支援もないので独自に企業さんにお願いし、今も独自に食料や物資を集めています。ほかの避難所では市から来た物資をほかへは運べません。いまではここだけで食べきれないほどの食物や物資が集まるようになったので、逆に30箇所以上の避難所を支援しています」

「物資調達は『できない』とか『ない』なんて言えない状況でした。頭を下げて土下座してでも協力いただき食料を集めなければならない状況で、2週間家に帰れませんでした。『家に帰ったほうがいい』と言ってくれる人もいましたが帰るガソリンもないし、かわりに3600食を毎日確保できる人がほかにいなかったのでやり続け、この間だけで10キロ痩せました。ここの避難所にいた方がみな出て行ったので、6月28日に避難所としての役目は終えました。もとの市民センターに戻ります。ですが、まだ近くに避難所があるので、冷凍した鳥の唐揚げひとり1箱、計840箱を送りました。今は、市民が元気になれるような温泉ツアーを企画中です」


怒涛の日々を過ごされた職員のみなさんにご挨拶し、センターからほど近い仮設住宅へ。

若林区

「ここは仙石線の駅から徒歩圏内にあり、高砂市民センターや大きな生協の店からも近いなど買い物も便利で、人気の仮設住宅です。駐車場や集会施設も整っており、手前には高齢者や障害者用のスロープつきバリアフリー型住宅があります。全体としては戸数に余裕があっても、生活上の条件が見合わないなどのために希望する仮設住宅に入れない人が、まだたくさんいます」


「震災から数カ月を経た今、この街・仙台には様々な心の状態の人がいると思います。
 一見したところで、どんな状態かはわからない。
 相手がどんなことを抱えてるか想像力を働かせ、気遣いながらも、お互いにできるだけふれないように、
 表面は明るく、ふつうに過ごしあっているような気がします。
 そんななかで互いの距離感がつかめず不安定な状態になっている人が、意外に多くいると思います。
 見えざる「心の被災者」、ともいえるかも知れない人々です。

仙台に来たら、 元気でにぎやかに見える仙台と、この被災地の厳しい現実の両方を見てほしいです。
そして、入り混じりあうメンタリティ、こういう落差のなかでみんな一緒に生活している ということを、感じてもらえたらと思います」

*   *   *

あの日何があったのか。その後、現地の方は実際にどう過ごされているのか。
今回は、偶然の縁と機会があった的場さんにお話を伺い、被災地のレポートをお届けしました。

ミシマ社としても、長い視点での本を通じた文化づくりのお役に立ちたい、と日々の業務に精進しております。

この度の地震で被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。
1日もはやく日常の日々が戻りますよう、お祈りいたします。

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