特集

平川克美さん×中島岳志さんトークイベント(後編)

2012.03.02更新

前編では、『小商いのすすめ』で触れられている日本の「人口減少」の問題が文明社会の歴史的な流れの結果であることや、その問題を政治が扱う際の危険性などの視点で対談が展開されました。

後編は、前編でもちらほら言及された、いま、その動向に注目が集まっている、あのひとについての話題からスタートします。

(文:足立綾子)

「橋下待望論」の正体とは?

『小商いのすすめ』(平川克美、ミシマ社)

『小商いのすすめ』(平川克美、ミシマ社)

平川僕は民主主義の擁護者でありたいと思っているんだけれども、最近の民主主義ってどうもだめなんじゃないかなと思い始めています。民主主義に対する反対概念というのが、独裁とかそういうものだと思われるかもしれないけれども、僕は、パタナリズムだと思っているんですね。パタナリズムというのは、上の者が下の者を責任もって面倒を見るという社会です。この前まで日本は、独特な家父長的な家族制度を持っていましたから、ずっとパタナリズムでやってきた。パタナリズムにしろ民主主義にしろ、社会の秩序のつくりかたですよね。

民主主義がどうもよくないなっていうふうに僕が思い始めた理由は、民主主義というのは、手法としては多数決じゃないですか。多数決というのは、少数の排除ですよね。民主主義の理念は、少数者の意見を聞くということですが、多数決をして出た少数者を説得し、もう一回多数決をとる。これを繰返していくとだんだん少数者が減っていき、最終的に全員一致になっていく。

つまり、非常に時間がかかる、意思決定できないシステムなんですよ。だけど、そういうシステムをやりましょうねというのが、民主主義の理念だった。なぜならそうじゃないやり方で、僕らは手痛い失敗をしたからですよね。

しかし、最近、なにが起こっているかというと、意思決定が遅いので、もうちょっと物事をてきぱきとしなければいけない、強いリーダーがほしいと人々は言い出したわけです。民主主義のもうひとつの側面である個人主義の進展の結果としてそうなってきた。つまり、民主主義の世の中で、そのフルメンバーたちが、理念としてあった民主主義とは対極にあるような欲望をもちはじめた。これが、橋下さんなんですよ。これが橋下さんなんです、というのもアレなんだけれども・・・(笑)。

中島僕が、非常に重要だと思っているのは、橋下待望論が出てくる現代の世の中ですね。どういうことが起きているのかというと、たぶん、いま、国民は大きなシニシズム(冷笑主義)っていうのを抱えていると思うんです。つまり、自民党もだめだ、けれども、民主党もやっぱりだめだ、じゃあどうしたらいいんだというシニシズムが大きく蔓延をしている。

さらに、3.11以降、政府はどんどん信頼を失っているわけですね。東電も大手メディアも怪しい。じゃあ、誰を信頼したらいいのか。結局、自分の子どもを守ろうと思えば、これまで知らなかったデシベルとかマイクロシーベルトとか、専門用語を勉強し、ガイガーカウンターで線量を計る。でも、それで出た数値が本当に正しいのかもよくわからない。このようなことを抱え込まなければならない異常な、究極の自己責任社会になっているわけですよね。

僕が東京の様子を見ていたら、最初の頃、かなりの人がマスクをしていましたけれども、5月ぐらいになって、それがなくなったんですね。それを見て、状況へのネグレクトが起こったんだと思ったんです。

つまり、全部ひとりで抱え込んで、全部調べてやっていくのは不可能なんですね。このような状況だと、もう大丈夫なことにしようと思うようにするしかなくなる人が出てくるんですね。そうすると、まだ危ないといっている人たちに対して、「そんなこといったって、仕方ないじゃないか」と排除の論理が生まれはじめる。けれども、それは、ものすごい大きな不安を抱えたある種の開き直りというか、ネグレクトなので、根底のところでは、「もう誰かがしっかりとやってくれよ」という待望論というものを背景としたネグレクトが起きてくる。

つまり、こういうときに、救世主待望論みたいなものが出てくるわけですね。ずーっと全部決めてくれ。政治がしっかりとして、官僚や企業のでたらめなんかを制するような強いリーダーが出てきてほしい。こういう待望論が出てきたときにピンポイントでマッチした人物として、橋下徹さんという人が、ぱっと目についたというふうな印象があるんですね。

経済成長路線を降りて、「ヒューマンスケール」に適した社会へ

中島この状態がずーっと続くと、危ないと思うわけです。ようやく平川さんのお話に戻ろうと思うのですが、もうひとつのモデルがあるはずだと思うんです。

橋下さんはグローバル化をすすめて、グローバル化に適した人材をつくるための教育改革をしましょう。そのためには、学力テストを導入して・・・というものがあり、さらに経済特区をつくって、企業を呼び込み、大阪の中小企業が海外に打って出て、利益を得ましょうというのは、途上国とかの何十年前かのモデルだと思うんです。

そのような経済成長路線というのが、ひとつのパッケージとしてあるならば、これをもう一回、降りてみて考えませんか? という路線がもうひとつあると思うんですね。それが、僕は「ソーシャルインクルージョン(社会的な包摂)」とか、あるいは、地域社会やローカルなコミュニティにおいて、私たちが参加をすることによって社会のなかで包摂されていく。顔の見える、平川さんの言葉でいうと「ヒューマンスケール」というものに適したある社会のモデルというのが、もうひとつあると思うんですね。

だから、僕は、大阪市長選挙というのは重要だと思いました。なぜならば、もうひとりの選挙に負けた現職市長の平松さんは、「市民協働」を標語に掲げていて、オルタナティブな世界のある種の像というものを捉えている人だと思いました。そうやってひとりひとりが誰かと関係づけられ、自分のアイデンティティの充足が得られ、居場所や出番というものを持っているような社会。こういうものをつくりながら、みんながそれほど大きなお金儲けをしなくても、生活できていけるような社会をつくりましょうというのが、もうひとつのモデルだと思ったんですね。

そして、おそらく、その延長のところに、平川さんの考えておられる「小商い」があると思うんですけれども、こういう「小商い」というものに注目された、あるいは、社会のモデルっていうのは、平川さんはどういうふうに思い描いていますか?

「成長したい」というのは、子どもの思想

平川克美さん×中島岳志さん

平川いまの中島さんのお話はおっしゃるとおりなんですけれども、『小商いのすすめ』にも書いてありますが、昭和30年代というのをひとつのモデルとして切りとっていたわけですが、その時代がよかったとは思ってはいないんです。実際に僕は、本のなかで、その時代がいやでいやでたまらなかったと書いていると思います。

三十年代というのはとっても生きにくい社会であったのは間違いないんですね。いわゆる、相互監視みたいなのがあったし、世間体をものすごく気にする社会でもあったわけです。同時に、助け合うということもありました。僕はどちらかというと、そういう地域コミュニティのなかでは、「ひとりインテリ」だったものですから(笑)、なんとなくね、みんなから疎まれるということもあって、余計に居づらかったところがあると思います。

いま、オルタナティブとおっしゃったけど、オルタナティブという言い方は、僕はあんまり好きじゃないんだね。というのは、いまのグローバル化に向かっていく社会に対する、もうひとつのオルタナティブといってしまうと、そこにあたかもバラ色の世界が訪れるんじゃないかと思ってしまう。

実際問題としては、オルタナティブだってそんなにいいもんじゃない。いいもんじゃないんだけど、逆にいうと、たぶんそれしか僕らが生き延びていく道はないんじゃないかなと思っています。つまり、グローバル化に向かっていくいまの社会のあり方というのは、根本的なところでなにか非常にものすごく大きな見落としがあるような気がするんですよ。

なにかっていうと、要するに、みんな「成長したい」っていうのは、子どもの思想なんですね。「成長」は子どもの特権ですからね。いま、世界で起こっていることは、日本のみならず、ヨーロッパもそうなんですが、年取った人が、老体に鞭打って、若いふりをしている。それは、年をとった人たちなりの生き方といったものを誰も発見できていないということなんです。しかし、現実はヨーロッパも日本も老人の国になっている。だから大変ちぐはぐな状態が続いている。

ただ、この議論には、ひとつ弱点がありまして、日本のなかで、成長期にある若い人たちにこれが説得力を持つのだろうかということです。僕の世代は、自分の成長・老化と国の成長・老化が、ほとんどパラレルだったんですよ。これが、ぜんぶ食い違っちゃったときに、人々はどういうふうに思うのだろうか、ということですね。

ボンディングとブリッジングを両立した開かれた社会

中島僕、札幌でホームレスの人たちと関わっているのですが、かなりの人が元生活保護の受給者なんですね。生活保護をもらっているほうが、月13万円ぐらいもらえるから、いい生活もできるし、医療も受けられるからいいのに、彼らはすぐ再路上化してしまうんです。「なんで?」って聞いていると、「友だちがいなくなるからだ」っていうわけですよ。

つまり、3万円以下ぐらいで家賃をすまさなきゃいけなくなると、札幌市のだいぶ外れのところに行かないといけない。そうすると、ぜんぜん知らない町のところで、ぽつんとアパートに入れられて、周りの社会もだーれも知らない。ケースワーカーという市役所の人との面会と、ハローワークに行くこと、その往復だけの人間関係で、なんの充実感もない。といって、再路上化をしてしまう人たちが結構たくさんいる。

そうすると、政治の制度改革とかによって解決できない問題がそこにあると思わざるを得ないわけですね。としたら、こういうような人間の充足感のようなもの、生きるアイデンティティや実存の根拠は、もうすこし関係性やソーシャルインクルージョンとかで担保していかなければ、難しいのではないかと思うんですね。

でも、平川さんがおっしゃられたとおり、これはなかなかやっかいな社会なわけです。たしかに、昔は、その社会に属していれば、意味のある生き方というものを町内会長を中心としたピラミッド状の共同体のなかで、生きていけたでしょう。しかし、このなかで、ちょっとちがったことをいうと、「ひとりインテリ」の平川青年は、排除されてしまうわけです(笑)。

インクルージョンのなかに、エクスクルージョンが強く働く社会ですね。包摂のなかに、排除が同時的に力学として働くような社会というのが日本型のコミュニティだったと思うんですが、これはかなりもう流動化してしまって、戻れと言っても戻れないし、戻るべきでもないと僕は思うんですね。

いまは、ボンディングという強い絆を持った社会がすごく重要だとは思うけれども、人間ですから、ぜったいにこのなかに、いじめや排除が生まれるんですね。重要なのは、ボンディングの関係のなかに、ブリッジングといって、いろんなところに橋渡しをしていくような新しいコミュニティのモデルを考えていかなければならないと思うんです。

これは、ロバート・パットナムというアメリカの政治学者が言っている議論なんですけれども、たとえば、町内会しかない社会というのは、僕は生きづらいと思うんですよ。けど、町内会もある社会にしていけばいいというのが僕の発想で、町内会に行って、なんか鬱陶しいなーと思えば、別の教室があって、仲間がいるとか、また別のところでは、カフェがあってそこで別の人間関係があるというような、人間が複数のところに所属できるようなある種の広域的な社会と開かれた社会というのが、これからの社会のひとつのモデルなんじゃないかなと思うんですね。

こういうのを昔の伝統を引き継ぎながら、現代に合わせたかたちで、少しずつゆるやかにつくっていく。おそらく、平川さんがされてきた、カフェの問題とかも、そういうところにリンクするのかなーと僕は思ったんですが、いかがでしょうか。

自分で自分の偶然に対して、責任をとるということ

平川克美さん×中島岳志さん

平川僕は、そんないい人じゃないんでね(笑)。自分が排除されたということは、同時に排除されたいという気持ちが自分のなかにあったわけですよ。

つまり、何がいいたいかっていうと、最終的にひとりひとり個人が自分の生き方を引き受ける、これしかないだろうと思うわけですよ。集団のなかでも、あっちで騒いだり、こっちで遊んだり、いろんな人たちが出てくる。それでいいじゃないかと。そういう社会がいい社会なんだと僕は思うんですね。

「君が代」を歌わない先生がいたっていいじゃないかと。愛国心のないやつはいますよ。そういったいろんなものをどれだけ許容できるか。許容しながら、なおかつ、全体としての秩序をどこかでつくらなきゃいけない。アナーキーを推奨するんじゃなくて、周縁性とか異質性といったものと折り合いをつけながら秩序を形成できるかということなんです。そうじゃないと、ぼくは完全に排除されちゃう側ですからね。「君が代」を歌おうが、歌わなかろうが、面々の計らいでいい。だいたいでいいんじゃないか。基本的にはそれでいいじゃないかと思っています。

『小商いのすすめ』に関していうと、本書のキーワードは第五章に全部入っていて、要するに、僕らが「いま・ここ」にたまたま生まれてきて、ここにいるということに対しては、なんの責任もない。生まれたときに、人は非常にお金持ちの家に生まれたり、貧しい家に生まれたり、夫婦仲の悪いなかに生まれたりとか、いろんなケースがあるわけで、そのことについては、なんの責任もない。そのことを自分の誇りにもできないし、なにもできないんだけれども、少なくとも、なんの責任もないところに生まれてきた自分をどうやって自分に対して納得させるんだと。

つまり、いま、行われている「生きがい」だとかの議論はすべて、自分が何者かであるということを前提としているわけです。だけど、偶然なんだ。この偶然を、自分が自分である必然に変える、ただひとつの方法というのは、なんの責任もないことに対して、責任をとるというやり方しかないだろうと。

人間は、自分を必要としている人のために生きている

平川自分に責任がないものに対して責任をとるということが、歴史上、あるいは、今の空間のなかであっただろかというふうに考えると、ひとつだけあります。それは、母親が自分の子どもに対して、無償の愛を注ぐという基本的な贈与です。母親は子どもにおっぱいをあげているときに、自分がどうしていま・ここにいなければならないかを実感しているはずです。男の場合にはそういった実感は希薄かもしれません。しかし、責任のないいま・ここに対して責任をとるというやり方で実感を取り戻すことはできる。自分で自分を救助するということが、たぶん、いまはとっても実は非常に重要な課題になっているはずなんですね。

文学が社会的に軽視されて、自分を救助するという言葉がなくなってしまいました。かつては、富永太郎という詩人が、「私は私自身を救助しよう」といったように、自分で自分を救助するというのが、非常に大きな課題でした。おそらく、そのためには、自分の責任のないことに対して、責任をとるという構えが前提にないと、自分を救助できないんですよ。つまり、救助できないというのは、それを全部他人のせいにもっていくしかない。

結局、自分を救助できるのは、自分で自分の偶然に対して、責任をとる。おそらく、年金の問題、社会設計の問題とかいいましたが、個人に則していえば、もっと大切で最大の問題は、自分の親や近隣の人たちがどんどん老齢化していって、受け入れ先がなくなっちゃう。自分がどうしていいかわからなくなってしまうということだと思います。

老人の側は、自己責任ではやっていけないですね。自己責任という概念すらない老人が、2050年には4割ですよ。半分、じじいの国というのは歴史上存在したためしがない。年金とかいっている場合じゃなくて、結局、自分が、そこに飛び込んでやる以外にない。お金では解決できないんです。特権的な大金持ちになって特権的な養護施設に入ることはできても、それはごく一部のものに限られてしまう。自己責任のない年よりの責任をどこかで後続世代がとらなくてはならない。なんとなくつらそうだけど、やってみたら、案外それって、いろんなものを問題解決していく、僕はそこに希望を持っているんですよね。

それは自分で介護をしてみて、思ったんですよ。いちばん思ったのはなにかというと、毎日スーパーに通って、飯を親のためにつくったわけですね。親が亡くなったら、とたんに僕は料理をしなくなっちゃった。結局、料理というのは、自分のためにやっているもんじゃないんだなと。まさに、人間というのは、自分のために生きているんじゃないんですよ。自分を必要としてくれている人のために生きているし、そこに喜びとかリアリティを感じるんだということをきちっと自分のなかに実感できるかどうか。

いまの議論は、「自分の欲望のために生きなさい。それを阻害するものと戦いなさい」というのが前提になっているんだけれども、前提がまちがっていますよ。人は、自分のために生きてはいないんだよね。

大人が「大人の役」を演じなくてはならない時代

中島僕、こういう話になるのかと思って、一冊の本を持ってきたんですよ。

平川ははははっ!

中島思い通りの展開になりました。僕がハタチのときからずっと読んでいる福田恆存という人なんですけれども、進歩的な文化人からものすごく嫌われた保守の論客ですけれども、僕はこの人がすごく好きで、『人間・この劇的なるもの』という本があるんですね。福田恆存はこのなかで、こういうふうに言っているんです。ちょっとだけ、読ませてください。

「個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発達しているとか、鼻がきくとか、そういうことである。  また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。あの役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する――ほしいのは、そういう実感だ。 」


『人間・この劇的なるもの』(福田恆存、新潮文庫)

『人間・この劇的なるもの』(福田恆存、新潮文庫)

と、彼はいうんですが、僕は、そのとおりだと思うんですね。いま、平川さんがおっしゃられたように、自分がある一定の社会なり、コミュニティなりで、誰かのための意味のある役割を演じているんだと自覚し、それを演じている瞬間、人間はその実感を得て、いきいきと生きている。おそらく、戦後社会はそういうものから解放されたいと思って生きてきた。

しかし、どんどん解放して、自由を獲得すればするほど、平川さんが最初の方でおっしゃったように、僕たちの不安は増大するわけですね。やっぱりもう一度、僕たちは、この役割を演じるという人間的な生き方、他者、誰かというものを前提として、その人らにとって私というものが意味のある存在として生きているということを自覚しながら生きること。おそらく、そういうふうな人間観に戻った方がいいんじゃないのかと僕自身は思ったりするわけです。

平川そうですね。『小商いのすすめ』の帯の「日本よ、今年こそ大人になろう」という意味はですね、僕が大人ということではまったくないんですよ。僕は、いつまでたってもガキだなと思ってしまうんですね。だけど、これは、大人のペルソナですよね。大人の役を演じないともうだめだなというふうに思っていることなんですね。

いつまでも若々しくみたいなものが、時代の風潮じゃないですか。でも、大人の役をそろそろ大人が演じないと、どうも世の中うまくまわらない。どうしてかっていうと、それは、子どもが子どもでいられることのためになんです。

中島そうですね。

平川子どもが子どもでいられるのは、大人がいなかったらできないんですよ。いま、子どもがこまっしゃくれちゃって、最近、テレビにかわいさを演じる子どもがたくさん出てきているじゃないですか、あれ、気持ち悪いんだよねー。

(場内大爆笑)

平川あの子たちの将来を、僕は大変心配しているんですけれども。調べてみたらわかると思うけど、かわいさを売り物にした子役が、なかなかうまく育たないんですよ。

中島芦田愛菜ちゃんを見ながら、おそらく僕たちは複雑な気持ちで見ているわけですよ。「かわいいーっ!」って言いながら、この子、大変だなーって思うわけですね。

平川子どもが、子どもの役を演じているんですね。でも、大人は大人の役割を演じていいんだけれども、子どもは子どもの役を演じてはいけないんですよ。存在自体が子どもであるっていうふうにやらせないと、たぶん、だめなんですね。つまり、子どもの役を演じることができるのは、大人だけなんですよ。だから、その子役の子は、どうやって演ずれば大人が喜ぶか知っている大人になっちゃってるってことなんですね。

中島やっぱり福田恆存が言っている、演劇的な、劇的な人間っていう存在なんだと僕は思うんですね。そういうものを社会というところで考えていくときに、ヒューマンスケールとかいろいろな問題が縮小均衡というふうに平川さんがおっしゃるような問題が、おそらくどんどん浮上してくるのではないかなというふうに思っています。

また、もうひとつの『俺に似たひと』という本もまさに平川さんの実体験というか、お父様を看取られるまでのプロセス、そのなかで、自分の役割をどう演じるかということを再帰的に書かれるプロセスなのかなと思いました。

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ただいま好評発売中の『小商いのすすめ』。本書と対になるような平川氏の『俺に似たひと』(医学書院)と併せてぜひ、ご一読くださいませ

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