今月の特集1

教えて! 内田先生「日本のいま、そして行く末を」

2014.12.09更新

対米従属によるふたつの成功体験

 日本の国家戦略は戦後一貫しています。それは「対米従属を通じての対米自立」というものです。「対米従属を通じての対米自立」は、敗戦後の日本においては「それしかない選択肢」であり、政策判断としては合理的なものでした。
 実際に1945年から6年間GHQの支配に全面的に服従した結果、わが国は51年のサンフランシスコ講和条約で主権を回復しました。講和条約は歴史上珍しいほど敗戦国に対して寛大な講和条約でした。対米従属によって戦後日本はまずかたちの上では主権を回復した。これが最初の成功事例でした。

 成功はさらに続きます。朝鮮戦争、ベトナム戦争においてアメリカの後方支援に徹したことによって、72年には沖縄の施政権が返還されました。国土の一部が回復したわけです。
 つまり、45年からの対米従属は、51年の講和条約と72年の沖縄返還という二つの成功体験を日本人にもたらしたのです。主権の回復と国土の回復という二つの成功体験は、日本人の中に「対米従属をしてさえいれば、いいことがある」という信憑を刷り込みました。それがそれからあと42年続いているのです。


対米従属戦略は「待ちぼうけ」

 敗戦後の日本の政治家たちはアメリカに対してアンビバレントな構えをしていました。直近の敵ですから、むろん日米の国益は相反する。でも、対米従属以外に日本が生き延びる選択肢はない。それゆえ「対米従属を通じての対米自立」は面従腹背の戦術として採用されたのです。顔は笑顔だけれど、腹の中には「はやくアメリカを追いだして、自分たちの手で国を作り直そう」という下心があった。
 けれども、二度の成功体験のせいで、日本人はこの面従腹背が国益確保のための戦術的迂回であるということをいつのまに忘れてしまった。沖縄返還からあと42年経ちました。でも、その後はどれほど対米従属を強めても、日本は主権的にも、国土の上でも、アメリカから何の「リターン」も受け取っていない。沖縄の基地は返還されないし、横田基地も返ってこない。けれども、対米従属がこの42年間何一つ日本に「いいこと」をもたらしていないという歴史的事実を誰も指摘しない。

「まちぼうけ」という童謡があります。もとは韓非子の「株を守って、兎を待つ」という故事です。農夫が畑を耕していると、兎がやってきて、切り株にぶつかって首を折って死んでしまう。それを持ち帰って食べた。その成功体験に居着いた農夫は、それからあと畑を耕すことを止めて、日長一日切り株の前に座って兎がやってきて首を折るのを待っていた。畑は荒れ果て、農夫は国中の笑いものになった。そういう話です。
 僕にはいまの日本の「対米従属」戦略は「まちぼうけ」のようなものに見えます。二度の成功体験があったせいで、「対米従属」という「切り株」の前に座り込んで「次にまたいいことがある日」をずっと待っている。42年間待っている。でも、もう「うさぎ」は来ない。そして、日本は畑を耕す仕方を忘れてしまった。

 1980年代、せめて90年代までは対米従属によってリターンを期待するのは合理的な国家戦略だったかも知れません。しかし、2010年代になってなおそれにしがみついているのはもう病的信憑というしかない。どう考えても、あと10年や20年のうちにアメリカが沖縄から立ち去り、国内の基地がなくなり、日本の安全保障戦略についてフリーハンドを獲得して、日米同盟以外の同盟関係を構想するという可能性はありません。
 つまり、対米従属はするけれど、対米自立はできないという「まちぼうけ」状態がこのあと、50年も100年も続く可能性がある。にもかかわらず、それについて危機感を持っている政治家も官僚も知識人もいない。少なくとも日本の指導層にはひとりもいない。

 いまの日本では対米従属そのものが自己目的化しています。ですから、政界でも官界でも財界でも、対米従属を効率的に進めることのできる人間だけが出世できるような仕組みになっている。自分たちが何のために対米従属しているのか、その理由さえもう考えていません。
 ただ、対米従属を効率的に進めると出世するし、年収も増えるし、ポストも約束されるし、社会的威信も増すという仕組みだけが自己運動している。かつては主権の回復・国土の回復のための迂回的戦術であった対米従属がいまや国家目的となってしまった。日本の国益よりアメリカの国益を優先する人たちしか国内で指導層になれなくなってしまった。

 映画監督のオリバー・ストーンは、(2013年8月6日に)広島での講演で
「日本はアメリカの従属国であり、衛星国である。日本は国際社会に発信すべきいかなる政治的主張を持っていない。日本は何も代表していない」
 と言い切りました。これがアメリカのリベラル派の常識だろうと思います。アメリカから見て日本は同盟国ではない、属国だと当のアメリカ人が言明した。
 けれども、日本のメディアはひとつもこの発言を報道しませんでした。属国だと言われたのですよ。そうではないと思っているなら取り上げて反論すべきでしょう。でも、黙っていた。それはそれがほんとうのことだと日本人はみんな気づいているのだけれど、それに気づいていないふりをすることが国民的な合意事項だからです。


植民地の買弁資本

 日本は最近植民地宗主国であるアメリカにさらに擦り寄っています。特定秘密保護法は、アメリカの軍機を守るために日本人の言論の自由を抑制するという政策でした。「アメリカの軍機を守るために自国民の基本的人権を犠牲にすることにしました」と言われたら、アメリカも「ああ、そうかい。そりゃすまないね」としか言いようがない。ずいぶんひどいことをすると思っても「アメリカのためです」と言われたら断るロジックはない。
 そのあとは集団的自衛権の行使容認です。アメリカがやってる戦争を自衛隊が肩代わりしようと言ってきた。アメリカからしてみれば「ああ、そうかい。そりゃすまないね」としか言いようがない。

 けれども、この提案はどちらもアメリカからみたらかなり「気持ちが悪い」ものだと思います。僕がもしアメリカの国務省の役人であったら、日本のこの二つの政策は気持ちが悪い。
 その見返りに日本政府が「日本の国益」を増大するような譲歩をアメリカに求めるというのなら話はわかります。たとえば、沖縄の基地を返還してくれとか、TPP交渉で日本の言い分を大幅に聴き入れるとかいうのであれば、わかる。
 でも、この二つの政策はいずれも「アメリカの国益を増大させる」という以外に何の目的もない。リターンとして要求されているのは「そのようにしてアメリカに忠義立てをする『私たち』をこれからも支援してください」ということだけです。安倍政権が長期化すればするほどアメリカにとって「いいこと」が続きますから、安倍政権を支持してくださいということだけです。日本国民の基本的人権も、自衛隊員の命も、海外派兵の結果日本人が抱え込むかもしれないテロのリスクもすべて「自分たちの政権を支持してくれるなら、支払っても構わない」代償として差し出されている。

 僕が国務省の役人だったら、こんな気持ちの悪い提案をしてくる政治家を同盟者としては受け容れたくない。利用できるだけ利用はしたいけれど、信頼できるパートナーだとはとても思えない。自国の国益を犠牲にして、自分の政治的延命や自己利益の増大を諮っているような政治家をどうして信用することができるでしょう。

 彼らからは、今の日本の指導層は「植民地の買弁」に見えるでしょう。「買弁」というのは、清朝末期において植民地の支配者である英仏米独におもねって、宗主国の便宜をはかる代償に自己利益を増やした人々のことです。
 ホワイトハウスからは官邸は「買弁」の巣窟のように見えていると思います。国益を代表している人となら外交交渉もできるでしょうが、私的利益しか代表していない人間とは交渉できない。いまのアメリカの日本に対する距離感は彼らが感じている日本の指導層に対する「気持ちの悪さ」の表われだろうと僕は思っています。

 先日の上海の国際会議で、習近平が安倍首相と「嫌そうな顔」をして握手をしていましたが、あれは非常にわかりやすい政治的ジェスチャーだったと思います。あなたは日本の代表ではなく、自己利益の代表者にすぎないのではないか、自分とは立場が違うという感情を表現したのだと思います。自分と同格の政治家として扱っていない。そういう政治家と外交儀礼上握手しなければいけないことに対する嫌悪感だと思います。
 韓国首脳もアメリカ首脳も、みんな「同じ表情」を浮かべます。あれは自国と国益が相反する隣国の政治家に対する顔ではありません。自国の国益を代表することを止めてしまった政治家に対する嫌悪の表情だと僕は見ています。


国の強さとは人間の強さ

 国が強いということは、人間が強いということです。
 はっきり言って、法律や税制なんて副次的なことなんです。国民がちゃんとしていれば、十分な市民的成熟に達した人たちが一定数要所要所にいるならば、それはちゃんとした国なんです。だから、どうやって「ちゃんとした大人」を育てるのか、それが国策の基本になる。

 そして、最初の話に戻りますが、別に「理想の日本人」というようなモデルがあるわけじゃない。組織の力が最大化するのはそれが多様なメンバーを含んでおり、それぞれが「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということです。そのような集団を形成することです。
 『街場の戦争論』にも書きましたが、非常事態に関する法律なんてどうだっていいんです。いまの日本の指導層は非常事態になったら「指示待ち」でフリーズするような人たちばかりです。だから、非常時のための法整備なんてしても仕方ない。非常時に何をすべきか、上からの指示がなくてもわかる人を育成するしかないんです。

 ドゴールがいたおかげでフランスは戦勝国になったわけですけれど、ドイツに降伏した時点で、ドゴールは国防次官に過ぎませんでした。ロンドンに亡命して、対独徹底抗戦を訴えて、ヴィシー政権から死刑宣告を受ける。自国の政府から死刑宣告を受けるような人間が、結果的にフランスを救うわけです。
 というか、そういう人間でないと国難のときに国を救うというような大事業はできない。非常時に備えて法整備なんかしても意味がないんです。そうではなくて、「ドゴールのような人間」をどうやって作り出すのか、どういう教育制度や組織論によって、そういう救国の英雄になれるような人間を一定数確保できるのか、それを考えるべきなのです。

 エリートというのは、なすべきことについての自己判断と国家的の政策判断が一致する人間のことです。別に上からの指示がなくても、国益のために何をなすべきかがわかる。それがエリートです。
 先の大戦のときにイギリスの人類学者ラドクリフ=ブラウンはスーダンで人類学のフィールドワークをしているときに開戦の報を受けました。彼はただちに研究を止めて、現地民たちを集め、彼らを自分の部下に編成して、ジャングルを超えてエチオピアのイタリア軍にゲリラ戦を仕掛けた。これがエリートです。何をなすべきかについて自己判断できる。それはそこまで深く国家目的が内面化していたということです。ケンブリッジとかオックスフォードという大学からはこういう人間が生まれるんです。

 第一次世界大戦のときアラビア半島で軍司令部から独断で「アラブの反乱」を指揮したT・E・ロレンスもそうです。彼もオックスフォード出身のエリートでした。自分がなにをなすべきか教えられなくてもわかる人間、そういう人間が集団の中に一定数いなければならない。イギリスやフランスではそういう考え方が定着している。

 ひるがえって、わが国には、そのような人材育成の制度的基盤がありません。非常時に対応できる人間というのは、いま与えられているルールを長期的利益のために平然と無視できる人間。上からの指令が間違っていると思ったら「間違っている」と抗命できる人間です。そういう人間だけが非常時に対応できる。でも、いまの教育システムがそのような人間を育てようとしているようには思えない。そんな人間は絶対に出世できないように社会の仕組みができている。

 ですから、日本は近いうちに制度的にがたがたになるだろうと僕は思っています。そのときに今の社会で指導的地位にいない人たちの中からあるいは非常時対応人材が出てくるかも知れません。とても、楽観的にはなれませんけれど、そういう「意外な人物」の出現に期待するしかないだろうと思っています。


    

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内田樹うちだ・たつる

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』(以上、ミシマ社)など多数。

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