今月の特集1

(左)『漢方水先案内』津田篤太郎(シリーズケアをひらく)、(右)『鹿の王』上橋菜穂子(角川書店)

 2015年、本屋大賞を受賞した小説『鹿の王』(角川書店)。巨大な帝国に征服された王国と、その王国に広がる謎の病。「独角」と呼ばれる戦士団の頭であったヴァンと、拾い子・ユナの親子、西洋医学と東洋医学、未曾有の病に立ち向かう医療の姿......こんな数行ではとても書ききれない、胸を打つ、壮大なファンタジー小説です。

 著者の上橋菜穂子さんは作家であり、オーストラリアの先住民族・アボリジニを研究する文化人類学者でもあります。そんな上橋さんが、本屋大賞の授賞式で「この物語にもすごく繋がるものがある」とお話されていたのが、『漢方水先案内』という一冊の本。
 この本が、なんと、ミシマガジンで「ヘンテコ医学史漂流記」を連載されている医師・津田篤太郎先生のご著書だったのでした。

 西洋医学、東洋医学どちらも取り入れた医療を施こされている津田先生は、「歪んで戻って、歪んで戻って」が生命である、と言います。そこには、二極端ではない世界を描き続ける上橋さんと、通じるものがたくさんあるように思います。
 そんなお二人に、生命について、医療について、縦横無尽に語りあっていただきました。
 第3回をお届けします。

(構成・写真:新居未希)

「健康」って、なんだろう? 上橋菜穂子×津田篤太郎

2015.07.22更新

偽薬が効く理由

上橋アボリジニの場合、様々な文化状況があるので一概には言えないのですけれど、呪術によって人が亡くなることにけっこうなリアリティがある場合もあるのです。西洋医学的な考え方をすると、「ある伝統の法を破ったから懲罰として殺される」ということは起こらないような気がしますよね。けれど、そういうことが、リアリティを持つ瞬間がある。なぜ呪術は効くんだろうか。

 これについて、ある人類学者が「人間の頭の中には物語装置があるから」と言っています。非常に強力な物語装置があるから、ひとつ種を与えられると、意外と世界中の人間が同じように考えてしまう。

津田うん、うん。

上橋すごく卑近な例で言ってしまうと、わたしに恋敵がいて、「その人なんていなければいいのに」と思ったとします。するとその翌日に、その人が車に轢かれて死んでしまった。これは科学的には偶然だけれど、偶然だとは思えないという人も多いのではないかと思うんです。そこに因果の糸をみてしまう。原因と結果の関係性というのは、意外と有限なんですよね。

 たとえば病気でも、プラシーボ効果(偽薬を処方しても、薬だと信じ込むことによって何らかの改善がみられること)みたいな、本当の薬ではなく偽薬を飲ませても効くのでしょうか?

津田すごく効きますよ。もう驚くほど、効くんです。

上橋あれは、なぜ効くのでしょうか?

津田注目されると、その期待に添ったように行動してしまう性質が、どうも人間という生き物には備わっているようです。みんなに「治ってほしい」と期待されると、まるで治ったかのように振る舞いがちになるという。

上橋その人がそう振舞う、というだけでなく、身体の生体のなかで、なにか化学的な変化が起きているということなのでしょうか。

津田結果としては起きるんだと思います。たとえば寝たきりの人や、脳梗塞になってしまってリハビリが必要な人にとくに顕著ですけれども、やっぱり一人ぼっちで放ったらかされて誰にもケアされないよりは、お孫さんがよく遊びに来たりして、家族に囲まれているおじいさんのほうがよくリハビリするようになるんですよ。
 そういう周りの気持ちが、ただちに病気の状態を動かしはしないけれども、結局おじいさんが心の中でやる気になって一生懸命動かそうとしているうちに、それはやはりちゃんとしたフィジカルな変化になっていくんですよね。

上橋そこが人間の身体の面白いところですよね。1+1がすぐにつながるかどうかはわからないんだけれども、見えない世界の、私たちにはわからない刻一刻と変化している糸があって、あるところをいくつか揺さぶっていると、それがひょんなところに影響するようなことがある。私は素人なので詳しいことはわからないのですが、東洋医学はそれを経験的に知っていて、やってきたというような感覚があるのですが......。

津田というよりは、それが実は本道というか、本筋なんですね。西洋医学は、直接手を突っ込んで、人間の身体を理解しようとします。この理解というのは、介入を目的とした理解です。「ここに腫れものがあるから、これを切って取りたい」という、まずその動機があります。そこから、安全に切って取るためには、どこに血管があり神経があるかを知らなければ、ということで解剖学が必要になってくる。単に「知りたい」ではないんです。「なんとかしよう」という動機がはじめにあり、そこで学問が始まっているんですね。

 それに比べて、東洋医学や、西洋医のなかでもヒポクラテスだったり昔の医学というのは、素朴な観察の結果なんですよ。そこには、先ほど話しに上がった「呪い」なんかも絶対に入ってくるんです。何だか知らないけど治る、と。どこまで自然経過で治るのか、というのを丹念に観察したり、時期を待つということもあります。だから、身体に直接手を突っ込んで治す、ということをし始めたのは、ごく最近の話なんです。

上橋なるほど。それはすごく面白いですね。

津田方法としてはきわめて強力なんですけれども、その分ゆがみも大きい。やればやるほど、強くなれば強くなるほど、ゆがみのほうも強くなるんですね。


たくさんのものを使ってなんとかしよう!

上橋西洋医学の場合、薬も純粋に、夾雑物を取って、純化をしていくなと思っていて。それは一番身体に影響がなさそうな気がするんですけれども、意外と強く、副作用が出てしまうこともありますよね。
 夾雑物が実はブレーキの役割を果たしてくれていたりする、ということを先生が本のなかに書かれていらっしゃって、「なるほど」と思いました。

津田それがバッファーになってくれている感じがあるんですよね。

上橋緩衝材的なものの存在意義って、考えてみると深いところに関わってきますね。変な話なんですが、ある程度の「諦め」というのが、人生のすべてにおいて実はすごく大事なのかもしれないなと思うことがあります。
 たとえば、完璧にネズミがいない社会にいようと思ったら、カプセルの中にでもいなくちゃいけない。でもネズミはいたらいいかというと、いては困る部分も確かにあって。噛まれたくないですしね。けれど、ある程度の諦めと、ここまでは仕方がない、というものがなかったら、たぶん人は生きてはいけないのかなあと思います。

津田それが、ひとつの知恵というものですよね。

上橋ただ、やはり西洋的な、科学的な思考に慣らされた私は、100%の解決というものがあってほしい、という気持ちももっている。それを目標に考えてしまうといいますか。
 先ほど理想の話をしましたが、人間は大人になっていくに従って、そんなものはないことに気がつきますよね。想定する力というか、「こうなればなくなるのではないか」と考えること自体は悪くないことだと思うんです。しかし現実問題、それをやってみようとすると、いけない部分がたくさんあるし、また違う問題が生じてしまうものもある。どこまでやってどう切るか、そしてどこで諦めるのか。

 先生の本の中で、「苦痛は大きいけれど早く治るほうがいいか、苦痛は少ないけれどゆっくりになってしまっていいか」というお話がありましたが、社会のような広いものにおいては、素早くすべてのことでパーフェクトを目指そうと思うと、後でうまくいかないことが巨大に出てきてしまうのではないかと思うんです。

津田一つの考え方、一つの価値観しか持ってないと、「パーフェクト」を求めてしまうということが起こりがちですよね。それはある価値観から見ると完全に見えるだけで、まったく違う物差しを当てたとき、完全とは程遠い状態に見えることはよくありますから。

上橋わたしも民族問題を考えているなかで、やはり、極端な行動を起こそうとする人には、100%を求める理想家が多い気がしています。多くのワサワサとしたものには目を向けない、というか、敢えて目をつぶるべきだと強く信じているというか。
 ただ、たしかにある一つの視点からしか見ないことで、効率よく進むこともあると思うんですね。でもその瞬間に「待てよ、わたしはいま進んでいて気持ちがいいのだけれど、そうではないこともあるんじゃないか?」と考える。そうしていったん外に出られるか、ということは、大きいように思うんですよね。それがわたしにとっての東洋医学の魅力かなあ。

津田なるほど。

上橋世界中には多々、あらゆる医学、命の、病の考え方があるのでしょうけれど、わたしは東洋医学は自分にすごく馴染みやすいように思うんですね。
 アボリジニの、ある地域集団で、「風」と「わたし」は同じグループに入っていて、だれだれと火は同じグループに入っていて......と、世界のさまざまなものを、いろんな分け方で分けて、結びつけて考える場合があります。これも、「一つの因果のものの見方ではあるんだろうな」と思うんです。人はみんな、世界がどういうふうに成り立っていて、自分はそこにどういう因果の糸でからまっているんだろうと知りたいところがあるんだと思うんです。

 けれど東洋医学の、漢方の面白さというのは、たくさんのものを使ってなんとかしようとするところだと思っていて。純粋なほうへ向かうのではなくて、雑多なものを受け入れて、バランスをとっていくという感覚ですよね。


「治す」のではなく「治ってもらう」

上橋あともうひとつ津田先生の本を読んでいて「ああ!」と思ったのは、「治す」というより「治ってもらう」。自分の身体のほうが、治癒の方向へ目覚めるのに気づかせる、というか。

津田あくまで、主役は身体なんですね。

上橋それは気づかなかったなぁと思いました。いつも患者は「お客様」のような気分でいたような気がして。考えてみると、患者は、治してもらうだけでなく、自分で治らなきゃならないんですよね。でもその治らなきゃならないところは、外から見てもらわないとわからない。ゆすってもらって、自分で目が覚めないといけない部分がたくさんあるんだろうな、と思いました。
 そういうものは、西洋医学はどうなのでしょうか?

津田西洋医学は、そのような自己治癒力は想定していなくて、医療者側が治すという発想なんですね。なにもせず放っておいたら、壊れて崩れてゆくものをなんとかする、という。それにも一部真理はあるのですけれどね。

上橋臓器移植はその典型ですよね。この人の体が治らないのであれば、他から持ってきていれて治す。
 ただ、自己治癒力というのも「諦め」とワンセットで、治らなくなっちゃったらその人の寿命です、というものをどこかで含んでいる気がします。その怖さもすこしあるんですが。
 けれど漢方の先生も自己治癒力だけじゃなくて、外からのアクションもあるんですよね?

津田そうですね。非常に精密にできた生命も、完全ではない。治そうと思って起こる身体の動きが、裏目に出てしまうこともたくさんあります。そこをうまくカバーして、正しい道にいれるという感じでしょうか。それが東洋医学の一番理想とする治療かなと思います。

上橋けれど東洋医学は、漢方にせよ診療にせよ時間がかかるので、今の医療とそぐわない部分もありますよね。

津田そうですね。なぜ明治にあっという間に東洋医学が廃れてしまったかというと、やはり国家間の「戦争」があったからなんです。ある短時間に、けが人が何百人、何千人と出る。それをいっぺんに治さなくてはいけない。そのときに、時間がかかる漢方では間に合わないんですね。それで役立たず扱いをされて、退場させられてしまいました。

上橋江戸時代までの、いわゆる金瘡のような刀傷に、外科的な処置というのはあったのではないですか?

津田もちろんあったのですが、時間あたりの負傷者数は近代戦のそれほど多くなかったかもしれないし、けっこう丁寧に診ていたんだと思います。
 江戸時代に、日本に近代医学を受け止める受け皿を作った、古方派の漢方の始祖である、吉益東洞という人が出てきました。この吉益家は、代々金瘡医の家柄だったんです。外科のほうからきているんですね。とはいえ、外科は外の科と書くように、外道なんです。ランクでいうと、内科医よりも下に置かれてしまう。内科医よりも上に置かれたのは食医なんですよ。

上橋なんだかそれは、すごく日本的ですね。

津田と思うでしょう。けれど実はこれ、古代中国でいわれたランキングなんです。

上橋なるほど。なら東洋的と言い換えましょうか。要は、人間の日々の生活活動のなかで、何もしないものに一番近い、ということですよね。食べることというのは。

津田一番大事だということですよね。

上橋上品(毒性がまったくなく、飲めば飲むほど体に良いとされている薬)というのも、そうなのでしょうか?

津田そうですね。食事に一番近いものが、上品と位置づけられていました。

上橋たしかに薬ではなくて、日々の食事でそれができれば一番いいように思います。
 けれど今の時代だと、大病院だと本当に次から次へと患者さんが来るから、じっくり診ることというのは、本当に難しいんだろうなあ。


<つづきます>


     

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上橋菜穂子(うえはし・なほこ)
作家・川村学園女子大学特任教授。
1989年『精霊の木』で作家デビュー。著書に『精霊の守り人』をはじめとする「守り人」シリーズ、『狐笛のかなた』、「獣の奏者」シリーズなどがある。2014年、国際アンデルセン賞作家賞を受賞。

2015年、『鹿の王』で本屋大賞を受賞。



津田篤太郎(つだ・とくたろう)
1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。
子どものころ、人間の模型図の腸のかたちが巨大迷路に似ていることに興味を持ち、解剖図を眺めるのが好きになる。

現在、聖路加国際病院リウマチ膠原病センター副医長。西洋医学と漢方の双方を生かす医療をめざしている。

著書に『病名がつかない「からだの不調」とどうつき合うか』、『漢方水先案内』、『未来の漢方』(森まゆみとの共著)がある。

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