今月の特集1

 自由と平和のための京大有志の会の藤原辰史先生にもご協力いただき、8月10日に京都大学で開催された「〈戦争できる〉国にしないためのちゃぶ台会議 -戦後70年、元海軍兵の言葉を聴く-」
 93歳の元海軍兵、瀧本邦慶さんの力強い肉声をもって語られる怒りの言葉に、会場はただただ圧倒されました。
 軍国少年だった瀧本さんは、戦地で餓死寸前にまで追い込まれたとき、「戦争はあってはならない」と確信したそうです。(瀧本さんの肉声音源はこちら)。
 近い将来、「戦争を知らない世代」しかいなくなり、「戦争経験者を知らない世代」が現れる時代が必ずやってきます。そのような時代が来る前に、今、私たちは何をなすべきでしょうか。このような声を後の世代に残していくことも、今を生きる我々の大切な使命であるように思います。
 経験したものにしか語れない戦争の真実を、実際の音声とともに、今日から3日間お届けします!

(構成:田渕洋二郎、構成補助:米田愛恵)

〈戦争できる国〉にしないためのちゃぶ台会議 戦後70年、元海軍兵の言葉を聴く(2)

2015.09.02更新



隠れてどんちゃん騒ぎする海軍 (瀧本さんの肉声音源はこちら

 トラック島へは、昭和19年の2月に行きました。トラック島は、南太平洋方面の最大の補給基地でした。もともと軍の基地ではなかったから、大東亜戦争が始まってから基地造成にかかったんです。だから突貫工事でやらないかんでしょう。その時に国はね、全国の刑務所から屈強な受刑者を1600人集めました。それで強制的にトラック島へ連れていき強制労働をやらせたんです。そうしてできた基地に、我々は行ったわけです。ほんでそこで、トラック島へ着いて荷物を下ろす、そうこうしている間に着いて一週間で大空襲が起きました。アメリカの、航空母艦の艦隊の大空襲受けたんですわ。

 それで、せっかく作ったトラック島の中継基地としての機能が全滅。攻撃を受けたのは昭和19年の2月17、18日。この2日間。それで全滅ですわ。一体、当時のトラック島の司令官はどない思いしとったんやと、あとで調べてみたんですわ。そしたら、17日の朝から空襲が来たんですけど、その前日、司令官たちは基地建設の時に内地の有名な料理屋の支店をこの島につくっとるんですわ。やつらはそこでどんちゃん騒ぎをやっとんです。攻撃を受ける日の前の晩に。これが海軍の本当の姿なんですわ、みんなが知らんだけで。我々も知らなかった。後から調べてわかったんです。戦地に、なんで料理屋の支店まで作らなあかんのよ。国の金で。そうでしょう? そういうことを国民の知らんところで堂々とやっとるんですわ。情けないことに。

 そこで陸軍の兵隊が死んだのが1万5千人。輸送船やら、海軍の軍艦やら、そういう船舶が55隻、沈没しました。持っていった飛行機350機も焼かれました。大きな重油タンク、全ての公安施設、全部やられました。そしてそれからのち、内地からの補給が完全にストップしました。


餓死ほどつらいものはない

 食料、武器弾薬、医薬品、これはもう完全にストップ。ですからトラック島は、その半年後から、餓死者が出てきたんです。トラック島には、陸軍・海軍合わせて4万人おりました。その中で、半分の約2万人が、餓死したんですよ。終戦なって、昭和20年の、12月30日に、内地へ生き残った者を帰しました。強制労働させられた1600人のうちでも残ったのはたったの70名です。

 当時は飢えをしのぐために、サツマイモの苗が生えたからいうて、イモ作りやりました。イモ1つで1日もたせるんです。それもない時は、下士官兵どもは、ジャングルに入って木のはっぱを取ってきて、それを海水で煮て食べるんです。便ももう、いつも青。芋虫と一緒ですわ。それで、半年くらい生きとりましたわ。私は当時、階級が下士官の一番上の、上等兵曹になっておりました。班長になって班員が13人おりましたんですけど、この中で7名が死にました。当時22、23歳で本当は元気ざかりですよ。内臓もどこも悪くないのに、食べもんがなくて、痩せていく。これがどんなに苦しいか。生きとったらねえ、いろいろつらいことはあります。だけど私が思うのは、これほどつらいことはないと思いますわ。


部下の遺体を運ぶこと

 それで班員が死んだらね、毛布に巻いて、5〜6メートルの丘の上まで持ってくんです。骨と皮とで軽いはずなのに重たく感じるんですわ。こっちも体力が落ちてるから。4人がかりでやすみやすみ丘の上まで持って行って、掘って埋めなあきませんやん。なんぼ痩せたいうても遺体を、毛布で巻いて収めて、見えんようにしよう思ったら、50センチくらいは掘らんないかんでしょう。でもそんなに掘れないほどこっちも弱ってる。だからほんの少しだけ掘って、遺体を収めた。だから毛布がちょっと見えるんですわ。そのときどないしたか。掘った泥を横に置いておいてね、手で泥救って毛布の上へ置いて、ならして、また置いてならして、その時だけ、見えないようにするんです。雨が降ったらすぐに出てきますよ。そんなことわかっとるんやけど、それ以上はしんどくてできへんから。そういう処置の仕方やったんですわ。

 それで、もう食べるもんはないしね、今度死んでいくのは誰やろうと。そんなような状態ですわ。だから、目に見えるもんいうたら、もう絶望しかないんですわ。希望は微塵もない。戦争ももう負けるのわかっとるしね。毎日空襲にきて飛ばされるから兵舎なんてあらしませんよ。防空壕の中入って、穴倉生活ですわ。そしたら南洋の湿気の多いとこの穴倉生活や。呼吸器によかろうはずがないでしょう。栄養失調になっとるところへ、呼吸器患ったら、あっという間に死んでしまいます。



3つの奇跡に生かされている 
1つ目の奇跡。もしも弾の当たりどころが悪かったら... (瀧本さんの肉声音源はこちら

 私が今日こうして、皆さんにお伝えできるのは、太平洋戦争中にね、3回奇跡が起こったからなんです。本当はそこで死んでもおかしくない状況だったのに、偶然が重なって生き残ることができた。話は少し戻るんですが、その第1回の奇跡が、飛龍におった時に起こりました。ある時、戦闘機がいきなり飛龍を機銃掃射してきたんです、後ろからいきなりきた。

 私はちょうどその時飛行甲板のうえで、作業をやっておりました。逃げる間なんてなかったですよ、とっさやからね。だから甲板の上へうつ伏せになりました。そしたら、私の右側30センチくらいのところで機銃の弾がパンパンパーンと当たったのが見えました。弾丸が降り注いできて、ああこれで終わりかなあと思いましたわ。でも起き上がってみたらどうもなかったんですわ。痛くもかゆくもなかった。それで「あっ、これは良かったな」思ってね、引き続き、私は作業をやっておりました。ところがね、そこらへんのやつが、「瀧本、お前背中から血でとるぞ」って言うから、作業服脱いでみたら、ちょっとだけ血が出ていたんです。まあ大したことないから絆創膏貼っといてくれい言うてね。そのまま作業を続けたんです。

 ところが実際はね、その1週間後に右の手が上がらんようになるんです。脇のところで突っ張っるんですわ。なんでやろう思うてとつまんでみたら、中に硬い芯があるんですわ。ちょっと肉が巻いてね。それで軍医に見てもろうたら弾が入っとるわっていうんですよ。こっちは痛くもかゆくもないのにすぐに呉の病院船に乗って、佐世保の簡易病院へ入院したんです。そして最終的には切開して弾を取り出してもらいました。


    

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