今月の特集1

 ミシマ社京都オフィスでは、去年の「邦楽入門の入門」につづき、今年も京都市さんと一緒に、日本の伝統芸能を紹介するフリーペーパーを作りました。今年のテーマは能楽です。

「何からはじめたらいいのかわからない」「知りたい気持ちはあるけれど、ハードルが高い」と感じている人たちに、「入門」の扉を叩いてもらうための一歩になればと、今年も一冊入魂!
 冊子には、若手能楽師の林宗一郎さんや有松遼一さんにご登場いただいたり、漫画家・魚田南さんに漫画を描いていただいたり、盛りだくさんです。

 そして、20年にわたり能のお稽古をされている、思想家・内田樹先生のインタビューも収録!
 ページ数のため泣く泣くカットしたお話の数々が面白すぎるので、ミシマガジンにて特別公開いたします。内田先生に、能のお話、なにかをはじめる、習うことについて、たくさんうかがいました。後編をお届けします。

(聞き手:三島邦弘・新居未希、構成・写真:新居未希)

内田樹先生に聞く! お稽古のススメ(後編)

2016.11.29更新

人からものを習う能力は、ものを習って練磨する

―― たとえば今、政治家で古典芸能を習っている人っているんでしょうか?

内田今はもうほとんどいないと思いますね。やっていてもゴルフぐらいでしょう。それだって師匠に就いて習っているわけじゃなくて、仲間内で遊びでやっているだけですから。少し腕の上の人に「グリップが違う」とか言われても、「むかっ」とするだけで、がみがみ言われたら「うるせえな!」と切れちゃうんじゃないですか。うまい人に注意されたら、多少の自己点検にはなるかもしれないけど、師弟関係でなければ自分の人間的成熟の機会にはなりません。
 昔は企業の中には能曲部というのもあったんです。シテ方を呼んで、会社の仕事が終わった後に同好の人たちが集まって謡の稽古をしていた。経費は全部会社持ちで。福利厚生の一環として部活があった。終身雇用、年功序列時代の企業の文化ですね。

―― 企業の中でもなくなったし、権力者たちもやらなくなったんですね。

内田今はもう、能楽堂にくる政治家や会社経営者なんて、見たことないですね。ビジネスマンも官僚も来ない。エリートたちはコツコツとひたすら修行していくことに興味がないんでしょうね。

 長く稽古をやっているとわかりますけれど、はじめは音感がいいとか身体能力が高いといった、もともとの素質がある人がうまく見えるんだけれど、しばらく経つと巧拙の差は「習い方の上手さ」だということがはっきりわかります。身体能力とか音感とかじゃなくて、「師に就いてものを習う能力」というのが決定的な差を導き出すということがわかります。大事なのは、実体的な知識や技術じゃないんです。自分ができないことを師に就いて習得するダイナミックな開放性なんです。学ぶ力なんです。

 だから、師匠に就いてものを習うというのは、きわめて汎用性の高い能力なんです。ある領域で師匠に就いて習っている人は、誰に対してもすぐに弟子のポジションをとれる。道行くおじさんや赤ちゃんからでも、「あ、そうか」と学ぶことができる。誰からでも、実にさまざまな知見を吸収できる。人間の知性的、身体的な成熟で一番たいせつなのは可塑性なんです。「伸びしろ」です。ものを習う能力です。どんなに資質が豊かでも、習うことができない人はすぐに限界に突き当たります。

 能楽を観るときに一番いけないのは、消費者目線で見ることです。「人間国宝になったけど、声が出てないね」とか「型に切れがない」とか、素人のくせにそういうえらそうな批評をするのが一番いけない。自分たちはエンターテイメントの買い手で、演者は娯楽商品の売り手だという商取引のスキームで見ても、得るものは何もありません。舞台を見るときでも、僕は演者から芸を盗むくらいの気持ちで見てますよ。着付けの襟元とか切戸口の出入りのときの屈み方とか、そういうものだって目を見開いて見てます。舞台上のすべてから学ぶつもりで観ていると、とすごく面白い。芸能は消費的に観るより、学ぶつもりで観る方が絶対面白いんです。

中世日本人のメンタリティーや身体感覚に同調する

―― 夏目漱石や三島由紀夫も古典芸能についていろいろ書いていますが、そういう本から入るという方法は、先生はどうお考えですか?

内田漱石を読んで能楽に興味を持つというのは、とてもいい入り方だと思います。漱石は宝生流を習っていましたから、おじさんたちが集まって謡をやったり、娘を呼んで鼓を打たせるというような場面が漱石の小説には出て来ますけれど、そういう楽しみ方が存在することをふつうの人は知りませんからね。だから漱石を読んで「そういう楽しみ方があるのか。自分も謡を習おうかな」というふうになるのは、健全なことだと思います。でも、三島由紀夫の『近代能楽集』を読んで、能楽を習おうと思う人はまずいないでしょうけど(笑)。

 能を稽古するというのは、中世日本人の身体感覚や感受性に同期するということです。稽古するとわかりますけれど、自分の身体の中の奥底に中世日本人がまだ生きているんです。そういう層が身体の深部にあるんです。すごく奥のほうにあるので、現代人がふつうに日常生活を送っている限り、その層が活性化することはまずないんだけど、能をやっていると、あるいは居合や剣術の型を遣うと、現代人においては用いられていない中世日本人の層が活性化する。それが出てこないと、謡はできないし、すり足で歩くこともできない。この「私の身体の奥底に中世日本人がいる」というような感じの発見はけっこう感動的ですよ。自分の中に自分がその存在を知らなかった技術や装置が眠っていたんですから。

 名人といわれるような能楽師の舞台を観ていると、そこに中世の日本の情景がほんとうに現出してくる感じがします。『松風』のキリの謡を訊いていると、見所にいても、本当に松の間を吹き抜ける潮風が頬に触れてきたり、須磨のあたりの海の香りがしてくる。そういうことって、あるんです。すばらしい舞台を観ているときには、能楽堂の中に一瞬だけ奇跡的に中世日本の野山や海岸、白砂青松や荒涼たる山道が幻視される。それが能の最大の魅力ですね。


寝てもいいんです。

―― たとえば能楽を見に行って寝てしまったとすると、「面白くなかったから寝てしまったんだ」といって、もう観ないというほうを選んでしまうのは寂しいなと思うんです。

内田寝ちゃっていいんです。「つまらないから寝る」わけじゃない。能というのはどちらかというと半覚半睡の状態で観るものなんです。

 能の曲の多くは、ワキが諸国漫遊の僧として登場して、いわくありげな場所に来る。そこにシテが登場してきて、場所の来歴について語り聴かせる。そして、「実は私はここで無念の死を遂げた誰それの亡霊である」と告げて橋懸りを歩み去る・・・というのが前半の構成になっています。ワキの僧は現実の人間なんですけれど、シテはこの世ならぬものです。ワキが霊を幻視するのは、だいたいもう旅で疲れて、日も暮れて来てというときなんです。だから、このとき僧は半睡半覚状態でシテと会話している。そうしてシテの幻想世界に引きずり込まれてゆく。見所の観客たちもまたワキ方を媒介してシテの語りを聴き、シテの舞を眺める。ワキは、見所の観客と霊の棲む幻想世界を媒介するトリックスターなんです。能の後半ではワキはだいたい最後まで何も話さずじっと座っているわけですけれど、見所の観客もワキと一緒に半睡半覚で夢幻を見ていればいいんです。

 でもそれでも、夢幻の中でなにかショッキングなことが起きると、自然とはっと目が覚めます。『卒塔婆小町』というあまり起伏のない能の曲があるんです。年老いた小野小町と旅の僧が延々と衒学的なやり取りをしているだけで、観ているうちにだんだん眠くなってきちゃうんです。ただ一箇所だけ、途中で小野小町に恋い焦がれて、焦がれ死んだ四位の少将の亡霊がいきなり小野小町に取り憑くという劇的な場面がある。
 前に能楽堂で『卒塔婆小町』を観ていたとき、前列にどこかの大学の能楽部の部員らしき学生が5人いたんです。観ているうちに案の定全員寝てしまっていた。でも、四位の少将が小町に取り憑いて「なう物賜べなう」と音調が変わるところで眠っていた5人が一斉に起きたんです。別に声を張るわけじゃない。微妙に、ちょっと声の音調が変わるだけなんです。でも、人間に霊が取り憑く瞬間の位相の変化というのは、眠っていてもわかる。

 阪神大震災の後、入眠導入剤を使っても3、4時間しか寝られない時期があったんだけど、そんなときでも能楽堂に行くと熟睡できました。だから僕は、睡眠が足りないときは能楽堂に行くんです(笑)。ほんとに気持ちの良い眠りにつけますよ。能楽堂はそういう使い方をしたっていいんです。

内田樹先生もご登場いただいている「能楽入門の入門」、京都市内のいろんな箇所で配布中です。
ぜひお手にとってみてください!
お問い合わせは、京都市文化芸術企画課(TEL:075-366-0033)まで。


  

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内田 樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。思想家・武道家。神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。
著書に『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』(以上、ミシマ社)など多数。

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