今月の特集1

『これからの建築』光嶋裕介著、『お世話され上手』釈徹宗著(共にミシマ社)

 去る2016年9,10月、『お世話され上手』(釈徹宗著)、『これからの建築』(光嶋裕介著)という2冊の本が、ミシマ社より刊行となりました。
 『お世話され上手』は、グループホーム「むつみ庵」を営み、お寺の住職かつ宗教研究者である釈先生が、老いや認知症、迷惑をかけることなどを、仏教の目を通して語っています。
 対して『これからの建築』は、新進気鋭の建築家である著者の光嶋さんが、街、ターミナル、学校、橋、ライブ空間、高層建築などあらゆる空間に思いをめぐらせ、スケッチをしながら描いた「マニフェスト」のような一冊です。

 仏教と建築、そしてグループホーム、近くて遠いようなものたちが、実はものすごく繋がっている!?
 宗教学者と建築家による共鳴の対談、全3回でお届けします。

(収録:2016年12月9日 スタンダードブックストア心斎橋店、構成:衣笠美春)

釈徹宗×光嶋裕介 これからの宗教と建築 〜生命力の感じ方(1)

2017.01.26更新

衣食住の「住」の部分を語らなければ

光嶋本のタイトルにもなっている「お世話され上手」という言葉を初めて聞いたときから、その言葉のキャッチーさにすごく惹かれていまして。「巻き込まれキャンペーン」もそうですが、聞いたことがない言葉なのに、説明を受けなくても「あっ、そうか」と腑に落ちて、すっと心に入ってきました。

「お世話され上手」も「巻き込まれキャンペーン」も僕が勝手に造った言葉です。ほかにも、むつみ庵(釈先生の運営するグループホーム)のテーマである「里家」も造語。里親からヒントを得た言葉です。本当の親ではないけれど、行けば「おかえり」と迎えてくれるのがきっと里親だなぁと考えたとき、自分の家ではないけれど、「ただいま」と言って帰れる家を、「里家」と呼ぼうと考えました。

光嶋僕は『お世話され上手』を拝読して、内容がすごく建築的だなと感じました。「建築的」という言葉も明確ではないんですけど......たとえば僕は本を書くとき、根底として「建築家として携わっている空間については、誰とでも会話ができるはずだ」と信じています。でも社会全般の目で見ると、やっぱり「建築って難しい」と思われているのかな、と思うんです。建築の本も、難しい言葉遣いをしていたり、あまりオープンに語られていない印象があって。
 建築家側の言語の組み合わせもそうなんですが、社会一般の人たちの、洋服や食べ物に対する言語の豊かさに比べて、空間に対する言語がすごく貧弱な気がしています。それはやっぱり、それぞれがあまり身の回りの空間のことを考えていなかったりするからですよね。だからこそ僕は、「もう少し広い意味において、空間を捉えることができるんじゃないか」ということを、建築家として言語化したいと思っているんです。いま、衣食住の「住」の部分がすごく弱い気がしていて。

衣食住がだんだん人間と切り離されているということを、『これからの建築』のなかでも書いておられましたよね。
 以前の社会だと、衣食住はそうとう生活者と密着しているものでした。着るものだって、昔は自分で縫ったりしていたわけです。そういう意味では、生活者から消費者へと移行しているんですよね。生活すること以前に、消費を覚えているという状況ではありますよね。

光嶋まさに消費感覚について考えることが鍵になりそうですね。


仏間からはじまる家づくり

むつみ庵はもともと民家でした。だから、あの家が建築された際の姿勢自体が、むつみ庵の正体なんです。むつみ庵の建物は、仏間中心にデザインされているんですよ。うちの辺りは田舎なので、家を建てるときはまず仏間と縁側の位置から考えはじめるんですね。仏間をどこに置くか、縁側をどうするのかが決まってから、居間や台所を考えます。
 仏間と縁側はくっついている。昔は、お坊さんは玄関から上がらず、縁側から上がったからです。そういう作法だったんですね。お坊さんが上がりやすい動線が玄関以外にあり、それに合わせて庭を考える。というふうに、家づくりの視点、物の見方が現代とは違う。そういう家なんですよ。


釈先生の運営するグループホーム・むつみ庵。古民家を使用している。

光嶋なるほど。ごく自然と多視点的に家を考えられているんですね。

いわば、「先人(先祖・死者)中心」「お客(宗教者・親類・近隣の人)中心」という姿勢。もちろん現代ではそんな家は使い勝手が悪いので、「暮らす人中心」ですが。でも、グループホームとして使う場合、これがなかなか良い。
また、開所して十四年になりますが、あの家で亡くなった方がいる、ということが大きいですね。むつみ庵では、これまでで7名の方を看取っています。その死を経て、家になってきたな、という感じがするんですよね。
 考えてみたら、高度経済成長期の設計って、死を前提としていないでしょう。たとえば団地のうえのほうで亡くなったら、エレベーターに棺桶は入らない。

光嶋寝た格好のまま運べないですね。すっかり盲点になっていますね。

人は必ず死ぬのにも関わらず、死を前提として作っていない住居なんていかがなものか、と思います。でも、たしかにそういう時期があった。死がどんどん日常から切り離され隠蔽されていく社会へ傾斜していた時期があったんです。ここで生きて、ここで死んでいくということを考えず、生活の一部分だけを切り取ったような建築が日本全国に拡大した時期がありました。


家には、蔵という機能しか残らないんじゃないか

光嶋「死を経過して家になっていく」ということは本にも書かれていて、つい膝を打ちました。僕も、ここがすごく気になっていたんです。団地の話もそうですし、住宅は生活のダイレクトな場であったはずが、どんどんアウトソーシングされてしまっている。たとえば、今はもう病院で亡くなるのが当たり前になっていますよね。
 『これからの建築』のなかに、「蔵としての家」という章があります。死ぬのは病院で、生まれるのは産婦人科、ご飯を食べるのはレストラン、寝るのはホテル......となったら、家って何のためにあるんだろう? と。突き詰めたら結局、自分の所有しているものを置いておく、蔵という機能しか残らないんじゃないか、と思いました。僕はそれを否定しているわけではありませんが、なんというか、これでいいのかな? と思うんです。

なるほど、家の機能のアウトソーシング傾向という問題ですね。

光嶋本来は、家にもっとある種の余白があっていいんじゃないか、と思っていて。住宅のなかに機能性に縛られない自由な空間があることで、生活にゆとりある余白が誕生すると思うんです。仏間がまさにそうですが、一瞬何のための空間かわからないような、そこに自由なエネルギーがあるような余白。
 また、死って、誰もが通る道ですよね。死を逃れられた人は誰一人としていない。それを、生活のなかに死が間近にあるということを隠蔽してしまっていると、いろんなものがクリーンになりすぎていくのではないかなと思うんですね。

生も死も、老いも病いも、いろんなものが入れ子状態になっているほうが、人間本来の住居でしょうね。

光嶋先ほど釈先生がおっしゃっていた、お坊さんが玄関からではなく縁側から入るというふうに、本来の住宅にはもっと多様な状態があるはずです。開かれていることで、たくさんの接続が可能になる。そうしたものがどんどん薄れていっていることに対する危機感はすごくありますね。

現代人の苦悩もそのあたりにあるのかもしれません。死や老いが切り取られ、日常の外へと押しやられている。でもそれって、ただ問題を先送りにしているだけですからね。いつかはその苦悩と向き合わなければいけないことも、なんとなくわかっている。迫りくる苦悩がぼんやりと向こうのほうに見えている怖さがある。
 老いや死に関する情報が今はたくさん社会に溢れ出ていますが、いくら情報をかき集めても、問題は解決しませんからね。



<つづきます>

  

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釈 徹宗(しゃく・てっしゅう)
1961年生まれ。宗教学者・浄土真宗本願寺派如来寺住職、相愛大学人文学部教授、特定非営利活動法人リライフ代表。専攻は宗教思想・人間学。大阪府立大学大学院人間文化研究科比較文化専攻博士課程修了。如来寺住職の傍ら、兵庫大学生涯福祉学部教授を経て、現職。著書に『法然親鸞一遍』(新潮選書)、『いきなりはじめる仏教生活』(新潮文庫)、『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋)、『落語で花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)、『現代霊性論』(内田樹との共著、講談社文庫)など多数。


光嶋裕介(こうしま・ゆうすけ)
建築家。一級建築士。1979年生まれ。8歳までアメリカで育ち、中学卒業まで日本とカナダ、イギリスで過ごす。1995年に単身帰国。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、大学院は石山修武研究室へ。2004年、大学院修了とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリンで暮らす。2008年に帰国し、光嶋裕介建築設計事務所を開設。2011年、建築家としての処女作、《凱風館(がいふうかん)》を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。主な作品に《レッドブル・ジャパン・本社オフィス(青山、2012)》、《如風庵(六甲、2014)》、《旅人庵(京都、2015)》など。著書に『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス)など多数。神戸大学にて客員准教授も務める。

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