今月の特集1

『これからの建築』光嶋裕介著、『お世話され上手』釈徹宗著(共にミシマ社)

 去る2016年9,10月、『お世話され上手』(釈徹宗著)、『これからの建築』(光嶋裕介著)という2冊の本が、ミシマ社より刊行となりました。
 『お世話され上手』は、グループホーム「むつみ庵」を営み、お寺の住職かつ宗教研究者である釈先生が、老いや認知症、迷惑をかけることなどを、仏教の目を通して語っています。
 対して『これからの建築』は、新進気鋭の建築家である著者の光嶋さんが、街、ターミナル、学校、橋、ライブ空間、高層建築などあらゆる空間に思いをめぐらせ、スケッチをしながら描いた「マニフェスト」のような一冊です。

 仏教と建築、そしてグループホーム、近くて遠いようなものたちが、実はものすごく繋がっている!?
 宗教学者と建築家による共鳴の対談、最終回です。(1日目はこちら2日目はこちら

(収録:2016年12月9日 スタンダードブックストア心斎橋店、構成:衣笠美春)

釈徹宗×光嶋裕介 これからの宗教と建築 〜生命力の感じ方(3)

2017.01.28更新

自分の可塑性をもっと強くしないとまずいな

光嶋僕にとってはベルリンという街が、「人って意外と簡単に変化できるんだ」ということ教えてくれました。

 たとえば、親父がジャズばかりかけていたので、小学生時代はジャズが嫌いだったんです。それが急にジャズを好きになったり。ベルリンでの、友達が一人もいないゼロからの人間関係のなかで、クラシックなんて一切聴いたことなかったけど行ってみようかな、とか、コンテンポラリーダンスを見てみようとか。どんどん新しいものに首をつっこんでいきました。食わず嫌いも含めて、あらゆる先入観を捨てようと心掛けました。
 そうするとけっこう、新しい自分をどんどん発見するというか、簡単に人は変われるんだなと感じました。「あれ、意外といけるやん」と(笑)。そういう自分の自我、あるいは人格に対する可塑性みたいなものを実感できて。

それ、僕にとっての「巻き込まれキャンペーン」と同じです。巻き込まれキャンペーンはそういうイメージなんです。何の興味がなくても、縁があったらとりあえずその流れに身をまかせる。

光嶋巻き込まれキャンペーンがスタートしたのは、自分の可塑性をもっと強くしないとまずいな、というのも理由の一つではあるのでしょうか?

そうですね。お寺の住職としても、教育者としてもこのままでは駄目だ、というような思いもありますし、先に話した、儀礼を研究してこのテーマが浮上したというのもあって。別に、こんなキャンペーンなんてしなくてもいい人は世の中に多いんです。そんなことわざわざ考えなくても、上手にのったり断ったりとかできるんですよ。僕はそれがそもそも苦手なので、キャンペーンをはらないとできないんです。


自分で打算的に行動しても、限界がある

僕は今まで、オレのことは放っておいてくれ、オレも君には一切関わらんから、というタイプの人間でした。それじゃいかん、と思って「巻き込まれキャンペーン」を始めた。『お世話され上手』にしても、自分のことをこんなふうに書く日がくるとはまったく思わなかったんですけど......。予想もしないことが起こったりするわけです(笑)。

光嶋そういうふうに自分の可塑性を信じていくと、予想外のところに着地できますよね。
 自分で計画して進むことは大事です。合理的に、最短距離で自分の目指すところに行くことも良い反面、その道しか見えていなかったら、ちょっと横向いてみることも大切。「こんな道が広がっているのか」ということを教えてくれるのは、基本的には向こうからやってくるご縁ですよね。ついわかった気になって自分で打算的に行動しても、限界があるなと感じました。
 でもそういうことのほうが、自分にまた新しい発見を与えてくれる。それを三島さんは『計画と無計画のあいだ』と書いていましたけど、本当にそうだよなと思って。両方しなくちゃいけないんですよね。

さっきのミクロとマクロの話と同じで、どっちかだけでは駄目なんですよね。


お世話され上手への道!

光嶋さんは、「お世話され上手になるのに、こういうのどう?」ということはありますでしょうか。

光嶋『お世話され上手』を読んでいて頭の片隅にずっとあったものが、この「お世話され上手」という言葉と同時に、迷惑をかけないためにサービスを購入するという消費感覚のことでした。
 消費感覚では、100円出せば100円のジュースがもらえるという、一対一の交換をしていますよね。空間においても同じ、一対一でアフォーダンスをしているというか。椅子は座ることをアフォードしていて、寝る行為についてはアフォードしていません。

 しかし研究室で徹夜をするようなとき、仮眠をとるために椅子を二つ並べますが、これは寝る行為もアフォードしていますよね。アフォーダンスというのは身体で、自分から発見していかなければならない。
 たくさんのものをアフォードできるような空間に、自然とお世話され上手の可能性があるんじゃないかと思ったんです。一対一以上のものをもてるような空間、もしくは空間の余白というような状態といいますか。

ああ、そうですね。その通りです。
 お世話され上手の最大の特徴は「こだわりのないこと」と本に書きました。アフォーダンスにも似たようなところがありますね。自分の意志でこうしていると思っているのを、周りにアフォードされているという視座から見直す。「この椅子にアフォードされて座る・横になる」などといったものの見方が、「お世話され上手の道」なんですよ。自分のほうからしか見てない人というのは、なかなかお世話されにくい人です。

 もう一つはですね、「まずお世話上手になる」という手もあります。お世話上手になることがお世話され上手につながる、ということはあり得る。
 本にも書いていますが、お世話され上手というのは、自分自身のテーマなんです。人と関わるのが苦手なので、関わろうというようなところから始まって、お世話され上手という言葉が生まれました。
 まずは関わろうとするとか、世の中からこぼれているようなところや隙間に目を向ける、枠からこぼれた人に寄り添う。そういった姿勢は、お世話され上手と近親性が高いと思いますね。

光嶋それを聞いていて、僕は子育てもそうだなと思いました。
 今、娘が1歳なんですが、36歳で父親になり、娘が生まれる前の36年間は、子育てという経験は僕のなかにありませんでした。生まれてから親元を離れるまでは、子育てされるほうしか経験していないわけです。それが結婚して、自分も家族をもって。

 妻とはコミュニケーションがとれるけど、娘はまだ会話ができないし、こっちの愛情がだだ漏れでもそれは返ってきません。そもそも見返りなど一切期待しない、無償の愛。娘に向けて子育てしていることは、自分が子育てされていた遠い記憶とセットなんだと思ったんです。
 子育てをしながら、自分が赤ちゃんだったときの記憶に思いを馳せることで、両親との関係がちょっと更新させるように思うのです。これから十何年間は僕も子育てをして、今はお世話するほうに必死だけれども、またお世話されるほうにループしていくのは健全なのかなぁと。だから、いつか両親の介護をすることで、自分の老いについて自覚するようになるのかなぁ、と。

子育てなんかは明らかに消費者体質じゃ成り立ちませんよね。かけたコストをそのまま回収というのはありえない。
 それは結局、生活することの本質みたいなところがあるのだと思います。部分的に切り取って消費活動へと転換してきたわけですが、それでは如何ともしがたい事態というのは必ずやってくるわけです。
 そのときの心と身体のありようとして、お世話上手とかお世話され上手とか、おまかせ上手というものをイメージしているんですよ。


   

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釈 徹宗(しゃく・てっしゅう)
1961年生まれ。宗教学者・浄土真宗本願寺派如来寺住職、相愛大学人文学部教授、特定非営利活動法人リライフ代表。専攻は宗教思想・人間学。大阪府立大学大学院人間文化研究科比較文化専攻博士課程修了。如来寺住職の傍ら、兵庫大学生涯福祉学部教授を経て、現職。著書に『法然親鸞一遍』(新潮選書)、『いきなりはじめる仏教生活』(新潮文庫)、『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋)、『落語で花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)、『現代霊性論』(内田樹との共著、講談社文庫)など多数。


光嶋裕介(こうしま・ゆうすけ)
建築家。一級建築士。1979年生まれ。8歳までアメリカで育ち、中学卒業まで日本とカナダ、イギリスで過ごす。1995年に単身帰国。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、大学院は石山修武研究室へ。2004年、大学院修了とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリンで暮らす。2008年に帰国し、光嶋裕介建築設計事務所を開設。2011年、建築家としての処女作、《凱風館(がいふうかん)》を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。主な作品に《レッドブル・ジャパン・本社オフィス(青山、2012)》、《如風庵(六甲、2014)》、《旅人庵(京都、2015)》など。著書に『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス)など多数。神戸大学にて客員准教授も務める。

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