スポーツ紙バカ一代

第3回 田中将大について考えることは喜びである(後編)

2009.07.29更新

ブラスバンドが奏でるコンバットマーチ。白球と金属バットが織りなす、乾いた衝突音。試合終了と夏の終わりを告げるサイレン。そして勝者よりも、敗者にちょっとだけ多く注がれる拍手...。日本の夏を感じさせるこれらの音が、わたしはとても好きです。夏の甲子園切符をかけた地方大会も、いよいよ佳境に入ってきました。

右側のプロフィールを見て頂ければ分かると思いますが、わたしは昨年までのべ5年間、高校野球担当記者として春夏の甲子園大会や地方大会を取材してきました。超高校級と言われるプロ注目の怪物選手から、部員が9人に満たない弱小チームまで。夏になると北海道から沖縄まで全国の球場へと足を運び、読者に楽しんでもらえるような面白いネタを集め、熱い紙面を作ることを生き甲斐にしていました。

高校野球の魅力は、観ている瞬間は誰でも平等に、高校生だった頃の自分に戻れるところではないでしょうか。でもそれは決して、炎天下の中、ひたむきに白球を追うピュアな心...だけではないと思います。レギュラー争いや限られたベンチ入りを巡って、ジェラシーが渦巻くのは当然のことでしょう。人間と人間が真っ正面からぶつかる、熱い青春のドラマがそこにはあります。

未来のスターをいち早く「発掘」し、取材できるのも高校野球担当の醍醐味でしょうか。東北・ダルビッシュ有、横浜・涌井秀章、そして駒大苫小牧・田中将大。「侍JAPAN」に選出され、WBCで世界一に輝いた彼らが、丸刈りだったあの頃。甲子園での奮投は、まぶたを閉じれば鮮明に思い出せます。

田中を初めて取材したのは5年前、04年秋の明治神宮大会でした。彼は高校1年生で、まだ16歳になったばかり。その夏、甲子園で全国制覇を果たしたことから、駒大苫小牧の新チームは全国的に注目されていました。

背番号は2。捕手のはずなのに、先発のマウンドに立った。捕手兼投手だったんですね。公式戦では初先発です。わたしの印象は「地肩が強い。力のあるボールを投げるなあ」というものでした。制球が乱れ、2連続暴投で敗戦投手になった。それから数年後に球界を席巻する剛腕のホロ苦い「全国デビュー」の記事は、「初先発田中裏目」という小見出しが付いた、わずか15行のものでした。

それから4年後。人生の荒波にもまれ、激動の三十代を送っていたわたしは、楽天番記者として世間で知らない人はいない20歳を担当することになります。34歳のしがないオッサンが、今をときめくマー君にどうすれば、自らの存在を認知してもらえるのだろうか?

自問自答を繰り返す中で迎えた2月。プロ野球は一斉にキャンプインを迎えます。楽天のキャンプ地は久米島。わたしは番記者として3週間、休みなくチームに密着することになりました。早朝、選手との散歩から深夜に及ぶこともある野村監督との懇談、さらに夢の中まで24時間、野球漬けの日々が続きます。まさに「島流し」です。鎌倉時代、隠岐へと配流された後鳥羽上皇も、こんなブルーな気持ちだったのかしら?

そんなメランコリーをブッ飛ばす出来事がありました。あれは忘れもしない、2月9日の夜のことです(忘れられないのは、その日が別れた妻の誕生日でもあったから)。選手宿舎近くの焼肉店に行くと偶然、田中ら若手投手陣と隣の席になりました。翌日は練習休み。解放感もあったせいか、酒も進みます。両テーブルが入り乱れ、いい感じで盛り上がってきました(注・男だけです)。

田中と、どんな距離感で接したらいいのかな? 試行錯誤するわたしの胸中を見透かすかのように、マー君が迫ってきました。いい表情をしています。

「泡盛、イッキにいきましょうよ!」

「よしッ。34歳をナメんなよ!」

「カンパーイ!!」

ロックを2杯、3杯と飲み干します。説明が遅くなりましたが、わたしは日頃から「周囲の雰囲気もあるから『とりあえずビール』でいくけど、2杯目からは烏龍茶でごめんねごめんね~」な典型的草食系男子です。笑顔の田中が、徐々に霞んで見えてきた。目の焦点が合わなくなり、足腰はヘロヘロに弱ってくる。たまらずトイレに駆け込んだ。それから先は...。

あらためて思います。あれはきっと「新入り」のわたしに、マー君が「歓迎会」を開いてくれたのだと。そんな気配りのできる若者なんだなって。うれしくなりました。

初めて取材した時、16歳だった若者の成長ぶりをまさかこんな形で実感するとは、夢にも思わなかった。根っからの文化系だったわたしが、日本屈指の本格派右腕に体を張って挑んだ男と男の「タイマン勝負」。ちょっとだけ自慢です。翌日の夕方まで、頭痛が止まらなかったけど。そんな時は「リングルアイビー」を服用しながら、こうつぶやくしかない。

「竹刀、ごっつあんです」。

ことし、甲子園の舞台は一体どの青年にスターの称号を与えるのでしょうか。「伝説になっていく者ども」を見届けることは、何事にも代え難き喜びです。灼熱の太陽光線が降り注ぐ中、神様が舞い降りる聖地。真夏の激闘が開幕するまで、あと10日-。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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