スポーツ紙バカ一代

第11回 心にいつも『スパルタンX』を

2009.09.28更新

目覚まし時計として使っている、携帯のアラームが鳴る。ああ、もう朝か。体が重い。起きられない。無視してウトウトしていると、また鳴った。もう、動かなきゃ。玄関へと朝刊を取りに行く。

背中のサロンパスを剥がした後、熱いシャワーを浴びる。次にトーキョーへ戻ってこられるのは、来週の火曜日か。スーツケースへ衣類をできる限り詰め込み、家を出ます。いざ、杜の都へ。「スパルタンX」を胸の中で、響かせながら。

担当する楽天イーグルスの快進撃が止まりません。野村監督が「すべての集大成」ととらえて臨んだ強敵・西武との3連戦を2勝1敗で見事勝ち越し。球団史上初のクライマックスシリーズ進出まで、いよいよマジック6と秒読みに入りました。チーム創設5年目。寄せ集めの弱小球団にとって、Aクラス入りとなれば歴史的な快挙です。デスクから発注される原稿量も膨大となってきました。

「まさか報知の1面はないやろ。明日、楽しみにしているぞ」

9月26日の西武戦に快勝後、野村監督からプレッシャーをかけられました。「スポーツ報知」の1面といえば、ジャイアンツ情報が「指定席」。でも、翌日の紙面では巨人の9連勝を中面へと追いやり、まさかの1面ゲットです。
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20090926-OHT1T00333.htm

読者の関心も高いため、番記者は休日返上でチームに密着します。シルバーウイークは、全部仕事になりました。次の休日は、いつになるか分かりません。こうなったらエンドレス。「いつまでもやってやろうじゃないか」と腹を括るしかない。オレは気ままな独身生活者だから許されるけど、家庭がある人とか、大丈夫なのかしら?

あきらめているとはいえ、わずかな心残りもあります。西武ドームへ取材に向かった9月27日はもともと、休日の予定でした。日本武道館でプロレスラー・三沢光晴さんの追悼興行があったからです。早い段階で前売り券を買って、三沢さんと「再会」できることを楽しみにしていました。ひと言、お礼を言いたかった。

もう20年近くも前になります。1990年4月、わたしはそれまで着用していた中学校の詰め襟の制服に別れを告げ、私服通学が許されるリベラルな進学校に入学しました。三沢さんが2代目タイガーマスクを脱ぎ捨て、素顔の「三沢」になったのは、それからちょうど1か月後でした。

三沢さんのプロレスは、新しかった。エメラルドグリーンのロングタイツ。ヘビー級なのに、いとも簡単に空中殺法をこなす。受け身は抜群に巧い。だから、相手の技を極限まで受けられる。

「タイガーマスク」ではない「三沢」を初めて生で見たのは、ちょうどその頃です。地元の水戸市民体育館に、全日本プロレスがやってきた。高校から、自転車で5分ぐらい。満員の場内に、三沢さんの入場テーマ曲「スパルタンX」が鳴り響く。僕らは、必死にノドを枯らします。

「ミッサッワ、ミッサッワ、ミッサッワ」

全力ファイト。テレビのない地方巡業でも、三沢さんは決して手を抜かない。誠実な思いが熱き鼓動となって、僕の胸を打つ。

その水戸大会から数日後の日本武道館で、三沢さんは「格上」のジャンボ鶴田にフォール勝ちします。「メガネスーパー」が資本の新団体・SWSが旗揚げし、選手が大量離脱してしまった。「全日本は潰れるのでは?」。そんな老舗団体の崩壊危機を、三沢さんが救った。若林アナの絶叫が、忘れられません。

「三沢が、勝った~ッ」

年に1度の水戸市民体育館では満足できず、放課後には「世界最強タッグリーグ決勝戦」を見るために、日本武道館へと「密航」しました。5時限の終了とともに、水戸駅へと走り、常磐線に飛び乗る。鈍行に揺られ、2時間。上野は遠い。

武道館は、いつも超満員でした。都会ならではのウイットにあふれた野次は洗練されていて、とても知的だった。休憩中には、自然発生的にウエーブが起きます。人の波が絶え間なく起きる中で、「スパルタンX」が鳴る。全身に電流が走ります。エクスタシーが到来する瞬間です。声を振り絞って、叫ぶしかない。

「ミッサッワ、ミッサッワ、ミッサッワ」

あれから15年後。スポーツ記者として三沢さんを取材したことが、一度だけあります。巨人担当をしていた06年4月。東京ドームの巨人戦前に、親交のある原監督を激励に来たのです。

僕は思春期の頃からずっと、喉が枯れるまで貴方の名前を叫び続けてきました。

中学生の頃は地方公務員か銀行員になろうと思っていましたが、貴方が鮮やかに刹那の感動を与えてくれるものだから、その一瞬を切り取る仕事がしたいと思って、こんな職業を選んでしまった。

そんな僕が、ようやく貴方と会えた。これも運命ではないでしょうか。

もちろん、そんな話なんてできるわけなく、僕はただただ平常心を失い、舞い上がっていました。後楽園ホールでの試合を控え、足早にドームを後にする三沢さんに追いすがるように談話をとって、その背中を眩しく見つめるだけでした。

「僕はぶっちゃけ、巨人ファンというより、原監督のファン。原監督は原監督のままで、無理しないで自然に選手がついてくれば、いいと思うよね」

「こんな感じでいいかな? ごめんね。うまくまとめといて」

温和な表情が、忘れられません。

仕事には一生懸命、誠実に取り組もう。全力で立ち向かえば、きっと誰かがどこかで、見てくれている。三沢光晴の背中は、そんなことを教えてくれた。さあ、重いスーツケースを引きずりながら、出かけよう。「スパルタンX」を胸の中で、鳴り響かせながら。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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