スポーツ紙バカ一代

第12回 「楽天って、何する会社なの?」

2009.10.05更新

杜の都に物凄い報道陣が押し寄せました。11台ものテレビカメラが標的とするのは、楽天・野村克也監督です。勝てば球団史上初のクライマックスシリーズが決まる大一番。70人もの記者が74歳の老将を取り囲みます。10月3日、西武戦の試合前練習でのひとコマです。

ベンチへと姿を見せた知将は、上機嫌で言い放ちました。

「連日、日本シリーズみたいやなあ」

在京キー局は看板の女子アナウンサーを投入し、野村監督からの談話を懸命に引き出します。その光景に、カメラのフラッシュが反応する。

「監督、本当に、本当に良かったなあ」。しみじみと、そう思いました。

野村監督を初めて取材したのは、記者になりたての03年1月。もう6年以上も前になります。阪神監督では3年連続最下位に沈み、追われるようにプロ球界を去った老将は、社会人野球・シダックスの監督に就任します。未体験のアマチュア野球で、その手腕を発揮しようというのです。

シダックスは都内に自前の野球場を所有していませんでした。京王線の調布駅から各駅停車に乗り換え、2駅。味の素スタジアムの最寄り駅となる「飛田給」という駅から歩いて15分。調布市所有のグラウンドが、メインの練習場でした。

ベンチには日よけも風よけもなく、風が吹くと顔面が真っ黒になる。隣の面ではリトルリーグの子供たちや、丸坊主姿の高校球児が汗を流していました。上半身は赤で下半身は黒。ジャージ姿に身を包んだ野村監督は、毎朝都心から「出勤」し、社会人選手を熱心に指導していました。

知将はグラウンドに到着すると、ベンチへと腰掛け、ファミリーマートで買った冷やしとろろそばを美味しそうにすすります。マネジャーさんが半熟卵を入れて、上手くかき回し、野村監督へと手渡す。手際の良い作業には、指揮官への愛を感じました。ヘルシー過ぎる食事には、長生きへの執念がにじみます。「オレには必ずもう一度、勝負の時が来る。まだまだ、衰えてはいられない」と。

巨人がエースの野間口貴彦投手の獲得を目指していたこともあり、わたしは連日のように、グラウンドへと通いました。早朝に品川のアパートを出て、渋谷と明大前で乗り換える。その間、スポーツ各紙や一般紙、雑誌を熟読し、取材に備えます。老将の発する質問に、こちらも瞬時に答えられなくてはいけない。

集まっている報道陣は、多くて3、4人。わたし独りだけのことも何度もありました。自ずと野村監督とマンツーマンで長話になります。野球界の百科事典のような老将の話は、いつも興味深かった。至福のひとときでした。

あの時も、グラウンドにいたのは、わたしだけでした。04年9月15日。IT企業・楽天がライブドアに負けじと、球界へ新規参入することが報じられた瞬間です。

「楽天? 名前は聞いたことある。何する会社なの?」

「カントク、楽天は、インターネット上に楽天市場という『商店街』を作っている会社です。いま、急成長しているんですよ」

「ふーん」

あれから5年。野村克也は楽天イーグルスの指揮官として、史上初のAクラス入りを確定させました。ウイニングボールを夜空にかざす知将へと、超満員に膨れあがったKスタ宮城の温かい声援が注がれます。

でもわたしは、絶対に忘れません。アマチュアの恵まれない環境の中で、野球への情熱を失うことなく指導していた、あの姿を。

さあ、CS突破、そして日本シリーズへ。生涯のライバル、巨人との激突が、どうしても見たい!

【参考】
ノムさんCSだ!5発「バンザーイ」!創設5年目初!...楽天
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20091004-OHT1T00034.htm

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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