スポーツ紙バカ一代

第18回 もらい泣き

2009.11.30更新

今までに見たことのない光景でした。ノムさんが壇上でいきなり泣き崩れた。嗚咽を漏らし、言葉にならない。眼鏡をとって、何度も顔をぬぐいます。

「久しぶりに帰って参りました。私がプロ野球界に元気で存在できたのも、丹後で培ったエネルギーがあったから。生涯、丹後を忘れることはできません」

11月21日、楽天・野村克也前監督の生まれ故郷、京都・京丹後市へと取材に出向きました。日本海側に位置する同市まで、京都駅から特急で2時間半。この日は「市制5周年記念式典」が行われ、知将は名誉市民として顕彰された。まさかの号泣スピーチに、客席からはもらい泣きする人も多数、見受けられました。

会見場に現れると椅子に腰掛け、自ら涙の理由を語り始めました。代表質問者からの問いかけを待つことなく、勝手に話し始めるところは、楽天監督時代にもよくあった光景です。10月までは日常だったのに。少しだけ、懐かしくなります。

「参った。何でだろう? 墓参りして母親と話して、あれが悪かった。母親が絡むと、弱いんですよ。子供の頃から母親の苦労する姿ばかり見て、育ったもんだから。マザコンだな」

ノムさんが3歳の時に父・要市さんは日中戦争で病死。母親だったふみさんは病気を患いながら貧乏に耐え、女手一つで育ててくれたと、知将からは何度も聞いてきました。

「苦労するために生まれてきた母親だった。子供心に『何でこんなつらい生活をしなきゃいけないんだ』という18年でしたから。いつか金持ちになって、母親に楽をさせてあげたい。その一念でした」

さすがのわたしもメモをとりながら、涙腺を抑えることができなくなった。水戸の実家にいる母親を、思い出したからです。

わたしの母も苦労人でした。人里離れた秋田の山奥の農家に育ち、中学卒業と同時に故郷を去った。兄弟が多かった貧しい家庭に、高校進学という選択肢は、なかった。15歳から頼る人もない茨城・日立市にある美容院に住み込みで働き、家事や見習い業務に従事しながら、通信教育で美容師免許を取得。20代前半で独立し、美容院を構えます。

母は言います。「わたしが23の時には、人を雇って毎月、給料を払っていたのよ」。まだまだ日本が貧しかった時代とはいえ、大学卒業まで仕送りをもらって気ままなキャンパスライフを過ごしていたわたしからすると、想像を絶する青春時代に思えます。

昔、押し入れを開けていたら、母親の中学時代の写真が出てきた。白黒写真が貼られたアルバムには、遠足などの思い出がペン書きで綴られていました。決して口には出さないけど、本心は愛すべき友達と一緒に、高校にも通いたかったはずです。

母は63歳となった今でも現役の美容師としてハサミを握ります。苦労が当たり前だった、昭和の女の人生。職業人としての自分に引退はない。あくまでユニホームに固執した野村克也と、その姿がかぶると言ったら、言い過ぎでしょうか。

老将は最後に、こんな話をしてくれました。

「南海にテスト生で入団して、安月給から毎月千円、送ってあげていたんですよ。その後はわたしもレギュラーになって、いい生活をさせてあげられるようになったんですが。『今の何万円よりも、給料の安い中での千円の方が、おかあちゃんはうれしかった』って言っていてね。親孝行は、そういうもんだなと思いましたね」

峰山駅のホームで帰りの特急を待ちながら、実家の母親に電話をしました。

「ああ、どうも、せがれです」

「あら、元気でやってる?」

「元気です。母上は、いかがですか?」

【参考】
ノムさん号泣 式典でスピーチ、母の思い出甦る...京都・京丹後「名誉市民」顕彰
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20091122-OHT1T00005.htm

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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