スポーツ紙バカ一代

第23回 「92.1.4」-熱き心に、時よ戻れ

2010.01.04更新

「1・4」と聴いただけで、かつては胸をときめかせたものです。わたしが思春期から20代前半を過ごした90年代、決まって1月4日に行われる新日本プロレスの東京ドーム大会は、刺激的な戦いをまぶたに焼きつけようとする超満員の観衆で膨れあがっていました。恒例のビッグマッチは「プロレスファンの初詣」とも呼ばれました。

新日本プロレスがはじめて1月4日に東京ドームで興行を行った日のことを、よく覚えています。92年初頭、わたしは北関東の進学校に通う高校2年生でした。東京ドームでプロレスを観るのは、これがはじめて。現在茨城の県立高校で英語教師をしているクラスメートのYとふたりで、遠路はるばるビッグエッグへと繰り出しました。

お目当ては「燃える闘魂」アントニオ猪木対馳浩のシングルマッチ。とはいえ、猪木は当時、スポーツ平和党に属する参院議員として、一年以上リングから遠ざかっていました。それもあってかメインイベントではなく、全12試合中、9試合目にラインナップされた。長いブランクはいかんともしがたい。万全じゃなくても、生で猪木が観られるなら、いいか-。

通ぶった17歳の読みは、完膚無きまでに叩き潰されました。猪木の放つオーラは、物凄かった。リングアナのコールに合わせて、ガウンを脱ぐ。東京ドームの2階席にまで、色気が伝わってきます。弓を引くナックルパート。反則気味に決まるスリーパーホールド。アームブリーカーに浴びせ蹴り。そしてフィニッシュは往年の必殺技、卍固めだ。「燃える闘魂」が両手を掲げ、完全復活を見せつけます。

「イーノッキっ、イーノッキっ」

6万人の猪木コールが鳴りやまない。すげえ。すげえよ、猪木。そのなかには我を忘れ、声を枯らして叫び続ける自分がいました。

興行はセミファイナル、メインイベントと続いていきました。脂の乗り切った長州力と藤波辰巳がタイトルマッチで興行のトリを務めますが、どうしても心に響かない。猪木の余韻に邪魔をされてしまい、わたしもリング上のファイトに集中できませんでした。

東京ドームを出た僕らは、JR水道橋駅西口近辺の中華料理屋へと向かいました。「東京でもラーメンなら500円前後で食べられる。お腹がすいた時でも、中華料理屋なら安心」というのが、貧乏な高校生だった当時の「鉄則」だったからです。

店内はドーム帰りのプロレスファンでいっぱいです。注文を終えると、お冷やを片手に、Yがつぶやいてきます。

「猪木、凄かったね」

わたしはこみ上げてくる思いを、我慢できませんでした。

「猪木は確かに、すごいよ。でも、若い奴らが、だらしなさ過ぎるよ。猪木は一年以上、リングを離れているんだよ。それなのに、東京ドームの主役が猪木だなんて、シンニッポンはそれでいいのか!? ストロングスタイルが、それでいいのか!? ダメだろ、それじゃあ!!」

ついつい大声で、しかも茨城訛りで、叫んでしまった。店内の誰もが、こっちを見ている。ああ、やっちゃったなあ。恥ずかしい。穴があったら入りたい。ニキビ面でうつむくわたしに次の瞬間、思いもよらない反響が待っていました。

「その通り。若者よ、よくぞ言った!」

「長州も藤波も、まだまだヒヨコだよな」

「蝶野はもうちょっとやると思ったけど、ドームの広さに飲み込まれちゃたみたいだねえ」

なんと店内の大学生や社会人が、わたしの発言に温かく反応してくれるではありませんか。そう考えていたのは、オレだけじゃなかったんだ。それだけのことが、うれしかった。死にたいくらい憧れた花の都のど真ん中で、わたしは照れながら頭をかくばかりでした。

あれから18年。当時プロレスに夢中になった同世代のほとんどがそうであるように、「1・4」に東京ドームへと向かう習慣は、なくなりました。何よりもわたしはスポーツ記者として、「1・4」は担当するアマチュア野球の取材に出向かなくてはなりません。

でも、仕事始めの朝、これだけは確かにしておこう。

17歳の頃の熱い眼差しを、今の自分は持っているだろうか?

「おしごと」として、ただスペースを埋めただけの記事を、読者はゼニを払って読みたいなんて思わないだろう。鋭い視点、広い視野。書き手として、自分はどこまでもプロフェッショナルでありたい。頭は冷静に、心は熱く、跳ぶ人間を追いかけていたい。

さあ、それでは取材に行ってきます。2010年も「スポーツ紙バカ一代」のご愛読、よろしくお願いいたします。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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