スポーツ紙バカ一代

第25回 読まれなかった1月17日の新聞

2010.01.25更新

先週は球界に悲報が相次ぎました。日本ハム投手コーチの小林繁さん、桑田真澄さんの父・泰次さんが亡くなられたのは、ともに17日午前中のことです。

翌18日、わたしは浜松へと向かいました。桑田泰次さんの通夜、葬儀・告別式を取材するためです。泰次さんは十数年前から浜松に住み、喫茶店「18」を経営する傍ら、少年野球チーム「浜松ジャイアンツ」の指導者をしていました。奇しくも67歳の誕生日となる17日の午前4時20分頃、この1階から出火。煙に巻き込まれ、一酸化炭素中毒で亡くなられました。

新幹線で浜松駅に到着すると、わたしは火災現場へとタクシーを飛ばしました。出火から30時間が経過していましたが、まだ焦げ臭い。玄関の前でそっと手を合わせます。店頭に飾られた桑田さんと清原和博さんのPL学園時代の写真も、焼けこげてしまった。

店の脇の勝手口には、郵便受けに17日の「スポーツ報知」がきれいな形で入っていました。出火の数時間前、あるいは数分前に宅配されたものでしょう。定期購読している泰次さんは毎朝、わたしたちの新聞を読むのを、楽しみにしてくれていたのです。

わたしが巨人担当として桑田番を務めていたのは4年前、06年のシーズンのことです。桑田さんの記事を数え切れないぐらい、書きました。ピッツバーグ・パイレーツを引退後、弊紙の評論家に就任した桑田さんにも、対談の構成を任せてもらったり、高校野球の解説をお願いしたりと、何度も一緒に仕事させてもらいました。

18番を生み、育てた泰次さんの目に、わたしの描く桑田真澄は、どう映っていたのだろうか。大切な読者を失ってしまった悲しみが、全身を襲いました。

式場では、桑田さんが思い出を語ってくれました。

「キャッチボールの時、父がミットを構えたところにボールがいかないと、捕ってくれない。父の後ろにボールを追っていくのは、屈辱的でした。そのおかげで上達した。僕の野球の原点は、父です。育ててもらって、感謝してます。背中の大きさ、温かさを覚えてます」

通夜では「浜松ジャイアンツ」のユニホームに身を包んだ中学生が涙を流し、肩を落としながら焼香の列に加わっていました。

「1年365日練習。1日休めば3日遅れる」「集中力を養え」「謙虚であれ。田舎のプレスリーになるな」

「浜松ジャイアンツ」の団訓です。最後の一節にはユーモアも感じられますが、それはそのまま、桑田さんの野球へのスタイルのようにも思えます。あまりに壮絶な最期でしたが、泰次さんの野球への愛は、教え子たちへと伝承されていくことでしょう。安らかに。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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