スポーツ紙バカ一代

第27回 萩本欽一が「大将」と呼ばれる理由

2010.02.22更新

あこがれのスーパースターと身近に接することができる。スポーツ紙記者という商売をやっていて良かったな、と思える瞬間です。一緒に食事をしていると、テレビには映らない素の一面が垣間見られる。野村克也さん、桑田真澄さん・・・。番記者として思い出深い「超大物」のひとりに、萩本欽一さんがいます。

35歳のわたしにとって、欽ちゃんは小学生時代のアイドルでした。80年代前半、「欽ドン!」「欽どこ」「週刊欽曜日」、そして「仮装大賞」は必ず家族が一堂に会し、腹を抱えて大笑いしながら楽しんだものです。小学2年生の頃、「めだかの兄妹」の振り付けを完コピし、中年の女性教諭に褒められたことをよく覚えています。テレビのゴールデンタイムが一家団欒の象徴だったあの頃。もう四半世紀以上も前になるのか-。

2005年、野球担当記者だったわたしの前に、遠い世界にいたはずの萩本さんが颯爽と現れました。社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を旗揚げしたからです。前年には球界再編、それに伴うストライキと、元気の無かった野球界に新しい風を吹き込みます。

あれから5年。08年には茨城GGの米国遠征に帯同し、寝食を共にさせてもらったのもいい思い出です。距離が短くなればなるほど、人間の悪いところも見えてしまうのが世の常ですが、欽ちゃんのそんな一面はこれまで、一切見たことがありません。お客さんの笑顔を求めて粉骨砕身、汗を流す。どんな時でも決して手を抜かない68歳の「プロ根性」に接するたび、魂が震えます。

先週、宮崎・日向市で行われた茨城GGのキャンプへと取材に行ってきました。朝から市役所、老人ホーム、午後は野球場、夜には歓迎会が行われる市民ホールと、「欽ちゃん」の一日に休息はまったくありません。楽屋や移動の車中では時折、疲れた表情を見せますが、マイクを握ると芸人の血が騒いでしまう。誰も真似できない日本一の「素人いじり」で爆笑の渦を巻き起こします。

その晩、食事をご一緒させてもらいました。萩本さんにはずっと、訊いてみたいことがあった。3年前の夏、24時間テレビで70キロのマラソンに挑戦した、あの動機です。ゴール時の瞬間最高視聴率は42・9%、平均視聴率は35%を超えた。66歳の奮闘に、日本中が注目しました。

「ヘビースモーカーの大将がマラソン、しかも70キロだなんて、僕は絶対、無理だと思っていたんです。あの仕事、どうして受けたんですか。途中で挫折したら大変なことになる。そのリスクとか、考えなかったんですか」

煙をゆっくり吐き出すと、こう話してくれました。

「あのね、僕の持論なんだけど『できない、つらい』には、運が落ちてるの。ああ、これはできないな、つらいな。だからやってみようと、思ったわけ」

萩本さんは今季限りで茨城GGの監督を勇退します。ラストマッチとしてこの秋、巨人2軍との戦いが計画されています。球界の盟主から、野球界を盛り上げてくれた欽ちゃんへ、最高の贈り物といえます。

「野球は、面白かった。『面白い』はすぐに、歳をとってしまう。だからさ、もっと、つらいところへ行ってみたいんだよね。倍、つらいところ。そこに出かけてみたいと思います。夢は100%、叶うから」

現状に満足しない。常に挑戦を続ける。男が惚れる男の姿が、そこにはあります。生き馬の目を抜く業界で、萩本欽一が「大将」と呼ばれる理由は、こんなところにあるのでしょう。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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