スポーツ紙バカ一代

第28回 ドジャー・スタジアムでわしも考えた

2010.03.08更新

カリフォルニアの強烈な太陽がジリジリと皮膚を焼いていく。乾いた風が運んでくるのは、天然芝の匂いだ。野茂英雄もこれが嗅ぎたくて、海を渡ったんだろうか-。

2月末から9日間、東京六大学野球リーグ・早大のロサンゼルスキャンプに密着取材しました。早稲田は今秋ドラフトの超目玉・斎藤佑樹投手や最速154キロを誇る剛腕・大石達也投手らスター選手を擁しており、読者ニーズも高い。担当のわたしも成田-LA間、往復6万円台の格安航空券を入手し、帯同することになった。

中でも感動的だったのは、ドジャー・スタジアムでの練習です。報道陣もグラウンドレベルまで降り立ち、球場の空気を存分に味わうことができました。

斎藤佑樹がマウンドへ向かう。日本人メジャーのパイオニア、トルネードの剛腕が魂を燃やしたプレートです。右膝を折る独特のフォームから40球、右腕を振る。スタジアムに流れる音楽はザ・ヴァーヴの「ビター・スウィート・シンフォニー」。思えばロックをBGMに斎藤が練習するなんて、日本では見慣れない光景だ。「苦しみと優しさの交響曲、それが人生さ」-。そんなメロディーに、ミットの音が交錯します。

投球を終えた斎藤は、その感激を隠すことなく語ってくれました。

「感動しました。マウンドは傾斜も高さも、すべて投げやすい。初めて甲子園で投げた時のような感覚でした」

「あこがれていたステージ。いつかここでプレーする日が来たらと思います」

瞳を輝かせながら話す21歳を見ていると、あの大投手の姿と重なりました。背丈も175センチと同じぐらい。斎藤と同じく高校時代には甲子園の優勝投手に輝いた、元ピッツバーグ・パイレーツ投手の桑田真澄さんです。

2006年、巨人のエースナンバー「18」に別れを告げ、桑田さんはメジャー挑戦を決断します。当時、番記者だったわたしは、桑田さんに尋ねました。桑田さん、このまま引退すれば、巨人のコーチとして何不自由ない環境の中で、野球に没頭できる。それなのに、なぜアメリカに行くんですか。

「『百聞は一見に如かず』と言うでしょ。ユニホームを着ていなければ、経験できないことはたくさんある。それを体験したいんだ。だから、修行だよね。野球を通じて言葉も文化も、すべてを学びたいんだ」

桑田さんは度重なるケガにも見舞われながら、メジャー昇格を果たし、ヤンキースタジアムのマウンドにも立ちました。それでも衰えは隠せず、米国では未勝利のまま、ユニホームを脱ぎます。もし、20代の全盛時に、海を渡っていたら・・・。

現在、世界はインターネットで結ばれている。家でパソコンを開けば、あらゆる地域のあらゆる情報が、意のままに入手できる。便利な世の中です。でも、それですべてを分かったつもりに、なってはいないか。受け売りの知ったかぶりで、過ごしてはいないか。

その地を踏みしめ、においを嗅いでみなければ、分からないことがある。ドジャー・スタジアムの磁界は、なぜ日本の有力選手が次々にメジャーを目指したがるのか、雄弁に語っていた。お金がすべてじゃない。ここにしかないベースボールの魅力が、ボールパークには確かにありました。

オレも書き手として、初心に帰ろう。何でも見てやろう。取材も電話で済ませることは簡単ですが、現場に足を運んで、空気を感じなければ理解できないことはたくさんある。「百聞は一見に如かず」。斎藤の笑顔を見つめながら、そんなことを考えました。

もうすぐ春。冬場、溜まりに溜まった中性脂肪をそぎ落とし、軽やかに走り回ろう。そして、感じよう。考えよう。書きまくろう。

第28回スポーツ紙バカ一代

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

バックナンバー