スポーツ紙バカ一代

第40回 就活仲間が、福岡市長になったのだ

2010.11.22更新

11月14日夜の出来事でした。斎藤佑樹にとって大学最後の大会となる「明治神宮大会」の取材を終え、会社でゲラチェックをしているところ、テレビにニュース速報のテロップが映し出されました。

「高島宗一郎氏が福岡市長選に初当選」

おお、宗ちゃんだ。市長さんになるのか。しかも、福岡市だぜ。おいおい、マジかよ。でも、宗ちゃんがやりそうなことだよなあ。

ハイテンションなわたしに、後輩が訊いてきます。

「お知り合いですか?」
 
「うん。昔ね、就職活動で、一緒だったんだよ」

14年前。大学4年生だったわたしの夢は、アナウンサーになることでした。憧れはテレビ朝日「ワールドプロレスリング」の実況を務めていた古舘伊知郎さん。とはいえ、キー局の試験は勝手がわからぬまま、瞬く間に終了してしまいました。ならば、地方へ。バイトで貯めたなけなしのお金を交通費に、全国各地の放送局へと入社試験に向かいます。

アナウンサー試験の競争率は高倍率でしたが、ある時期からどこの局を受験しても、最終面接に残るメンバーがいつも固定されていきました。そのなかに、宗ちゃんがいました。ともに熱狂的なプロレスファン。すぐに仲良くなりました。

滑舌もマスクも良かった宗ちゃんでしたが、ひとつだけ「弱点」がありました。全然、野球に興味がないのです。野球の実況はアナ試験の「必修科目」。ある日、電話がかかってきました。「カトちゃん、野球詳しいよね。一度、オレの家で特訓しない?」

北千住のアパートに赴き、VHSで録画した巨人戦中継を見ながら、2人で実況の練習をしたものです。でも、宗ちゃんはやっぱり野球が好きじゃなくて、すぐに「闘魂三銃士」のビデオを見ようぜ-という話になっちゃったけど。そうだ。宗ちゃんが高校時代、「聖飢魔II」のコピーバンドで地元・大分のテレビ局に出演した映像も、一緒に見たっけなあ。

宗ちゃんは優秀で、早い段階で九州朝日放送から内定をゲットしました。対するわたしは、相も変わらず最終面接まではたどり着くものの、あと一歩で脱落する日々。季節は夏。焦りました。大学の就職課に行くと、スポーツ新聞の会社から、求人票が貼ってあった。別なジャンルも、受けてみようかな。無欲さが奏功したのでしょうか、すんなり内定を頂き、結局この会社に、お世話になることにしました。96年8月8日のことです。

それから数カ月後。秋も深まるなか、部屋の電話が鳴りました。声の主は、宗ちゃんでした。

「カトちゃん、アナウンサー試験、辞めちゃったんだって」

「スポーツ新聞の会社に、勤めることにしたよ。アナには、向いてなかったみたいだ」

そんなわたしに、宗ちゃんは強い口調で言いました。

「ダメだよ。カトちゃんは、アナウンサーになった方がいい。オレさ、今回の就職活動で、たくさんの人に会ったけど、一番面白かったのは、カトちゃんなんだよ。もう一年、続けなよ。絶対、なれるよ」

考えてみるね、また電話するわ-と言って、受話器を置きました。もちろん、わたしにはもう一度、就職活動を行うような気概はなく、宗ちゃんとの連絡もそれで途絶えてしまった。でも、そんなことを言ってくれた人は、初めてだった。あの日の宗ちゃんの声を、鮮明に覚えています。

福岡市民の皆さん、あなた方が選んだリーダーは、そういう人間味にあふれた、思いやりのある男です。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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