スポーツ紙バカ一代

第43回 熱狂、鎌ケ谷。不思議の国の佑樹

2011.01.24更新

「カトーさん、昨日、サッカーしてましたよね?」

「時の人」から放たれた言葉に、わたしは一瞬、ひるみました。スーツ姿の斎藤佑樹投手を取り囲む大勢の報道陣が、怪訝そうに小生の顔をのぞき込みます。1月15日、東京ビッグサイトで開かれた日本ハム本社商品展示会後、会見が始まる瞬間の出来事です。この日は斎藤が入団後、公の場でダルビッシュ有投手と初対面を果たすことで注目されていました。エースとはどんな会話を-と訊こうと思っていたところ、斎藤本人から「逆取材」されてしまったのです。

「なんでオレがサッカーやってたって、知ってるの?」

「だって、新聞に載ってましたんで」

そう言って、斎藤が笑います。わたしは今季からアマ野球キャップを離れ、日本ハムと西武と遊軍記者になりました。前日には西武の石井一久、岸孝之両投手の自主トレを取材したのですが、最後は報道陣も交えてのフットサル大会が催されました。で、この日の朝のライバル紙に、ともにサッカーボールを追う小生の写真が掲載されていたのです。

1月11日に入寮してからというもの、斎藤にとっては気の休まる間もない、慌ただしい日々が続きます。それでも寮では毎朝、自らの一挙手一投足を報じるスポーツ新聞に目を通し、記事をチェックしているようだ。これはちょっとした発見でもありました。

翌16日には、千葉・鎌ケ谷市のファイターズタウンで「新入団選手歓迎式典」が開かれました。黄金ルーキーの「佑姿」を一目見ようと寒風吹きすさぶ中、1万1000人ものファンが集結。所轄の鎌ケ谷署は異例の60人態勢で警備を行いました。

何よりも熱いのは、我々マスコミです。実に47社272人の大報道陣が背番号18に熱視線を送ります。午後3時、式典スタート。「おいおい、間隔が狭いぞ。大丈夫か?」。冬空を見上げると、空撮を試みるテレビ局のヘリ5台が球場の上空を旋回していました。平和なニッポンを象徴する光景と言えるかもしれません。

「入って早々、申し訳ないですけど、早く北海道に行きたいと思っています」

式典で斎藤は「転入即サヨナラ」の爆笑スピーチで鎌ケ谷市民を沸かせました。セレモニー後、わたしにはひとつだけ、訊いてみたいことがあった。あのね、斎藤君。これは僕も「同罪」だと思うんだけど、報道陣は今、猛烈なフィーバーでどうかしちゃっているよね。その渦中にいるのって正直、どんな心境なのかな?

斎藤は「うーん」と思いを巡らし、頭の中をいったん整理してから、答えてくれました。

「不思議というか、高3の頃からもそういう感じだったじゃないですか。『入寮したところで・・・』と正直、本意ではないけれど、取り上げてもらえてうれしいです」

複雑な胸中がうかがえます。そして、意を決したように、こう続けました。

「結果が出なくて苦しむのも自分。人よりも苦しむと思う。プレッシャーを自分にかけて、活躍できるよう頑張りたい。自分で蒔いた種なんで、自分で刈らないと」

『斎藤佑樹』として生きていくことは、もはや天命。逃れられない。ならば、すべてを受け入れるしかない。現状を冷静に受け止める「強さ」が、談話からは伝わってきました。

1月22日、5日ぶりに鎌ケ谷へ出かけました。斎藤にとって早大のチームメートだった西武のドラフト1位・大石達也投手を取材するため、小生はここ数日、所沢へと赴いていたのです。午前9時47分、黄色とピンクのウインドブレーカーに身を包んだ斎藤が、寮から出てきました。わたしの顔を発見するやいなや、いい表情で話しかけてきます。

「大石、どうでしたか?」

ブルペンで、いいボール放っていたよ-なんて話しながら、ああ、斎藤は紙面を見ながら、オレが所沢で大石の取材をしていたこともチェック済みなんだな、とも感じました。

「不思議の国の佑樹」は熱に浮かれることなく、地に足をつけて、今を生きています。「時の人」になってしまった自分を、客観的に見つめながら。日に日に、精悍さが増している気がします。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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