スポーツ紙バカ一代

第48回 Dreamin'な夜。ライヴハウス東京ドームへようこそ

2011.06.14更新

熱狂のライヴから3日経つ。今でも脳内を激しいビートが渦巻いている。夢だった、としか言いようがない。6月11日、氷室京介のライヴを体感するために、東京ドームへと向かった。セットリストには、すべてBOΦWY時代のナンバーが並んだ。

何もかもが異常だった。JR水道橋西口の改札を出ると「チケット譲って下さい」のメッセージボードを持った数人の男女が、不安げに立ち尽くしていた。足早にドームへと急ぎ、22番ゲートの列に加わる。アラフォーの男女が多い。頭髪が薄くなった人もいれば、メタボ化からの脱却を潔く諦めたような人もいる。みんな平等に、歳を取った。もちろん僕も、数日前に生まれてはじめて白髪を染めたばかりだ。そんなオッサンとオバチャンが、5万5000人も集い、開演前だというのに手拍子しながら「ヒムローッ!」なんて叫んでいる。

正確に言うと、僕は直撃世代ではない。88年4月の解散時には、中学2年になったばかりだった。北関東の地方都市。高校3年の姉貴は、「LAST GIGS」のチケットを電話予約しようとしたけれど、何度かけても話し中で取れなかったと嘆いていた。その夜のテレビニュースでは、チケットが10分で売り切れたこと、文京区の電話回線がパンクしたことを報じていた。20代で構成されたロックバンドの解散が、社会現象になっていた。

ちなみに解散ライヴの前日(4月3日)には巨人・澤村拓一投手がこの世に生を受け、2カ月後にはメンバーの出身地でもある群馬で、日本ハム・斎藤佑樹投手が誕生している(6月6日)。学校の話題はドラクエ3の攻略法に尽きたけれども、僕は早く大人になりたかった。「ザ・ベストテン」でオンエアされるのとは違う種類の音楽を、渇望していた。姉貴の部屋から聞こえる氷室のシャウトや布袋の色っぽいギターソロに、魅せられた。

「1曲目は何で来るかな?」。きっと誰もがこんな会話をしながら、ビッグエッグを目指したはずだ。総立ちのオーディエンスに放たれたのは「Dreamin'」だった。大合唱が始まる。「ライヴハウス東京ドーム」のすべてが、歌っている。ステージの中心に氷室がいる。僕らは拳を振り上げる。こんな時代だからこそ、心に沁みてくる。あの頃、全国津々浦々でそれぞれのウォークマンから流れていた「みんなのうた」。再現されたのは、青春のBGMだった。

珠玉の名曲が続く。ふと、思った。ボウイが歌ってきたのは、何か。それは「夜」だ。彼らは徹頭徹尾、激しいビートに乗せて、夜の風景を歌ってきた。男と女の機微、駆け引きは、結局経験できないまま大人になってしまったけど、艶めかしい世界観は永遠の憧れでもある。MCはなく、間髪入れずに曲が奏でられる。氷室の歌声に酔った。酔いしれた。

高校時代、仲間とよくこんな話をした。「あと5年早く生まれたかったな。そしたら、ボウイのライヴを見られたのに」。完全じゃないけど、夢は叶った。満足だった。いや、ちょっとだけ強欲になってもいい。「何で"わがままジュリエット"、やらなかったんだろ? 聴きたかったのになあ」。そんなことを考えながら、CD「GIGS」を聴いた。理由がわかった気がした。

この曲を名曲たらしめているのは、むせび泣くような布袋のギターだ。いつか、あの4人がもう一度グルーヴを生み出す日を、待ちわびたい。「わがままジュリエット」を体感するのは、その時でいい。実現するかどうかはわからないけど、僕は信じたい。だって、夢を見ることの素晴らしさを教えてくれたのは、あなたたちなんだから。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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