スポーツ紙バカ一代

第49回 原点回帰。七月の夜、母校へ。

2011.07.13更新

 強力な太陽光線がジリジリと肌を焦がし、汗が止めどなく噴き出る。ブラスバンドの奏でるコンバットマーチに、金属バットの乾いた音と女子高生の悲鳴が交錯する。暑い、熱い季節が今年もやってきました。甲子園切符を懸けた高校野球の地方大会が各地で開幕。参加49校が揃う今月末まで、激闘は続きます。わたしも母校の奮闘を体感しようと、週末の9日、水戸市民球場へと足を運びました。

 グラウンドと同じぐらい、学ラン姿で水をかぶりながら大声を張り上げる応援団の雄姿が、眩しく映ります。軍歌のように古めかしく、少しだけ嫌いだった校歌も愛おしく聞こえてくる。トシをとったからでしょうか。何も持たず、何者にもなれず、何かになりたかった十代の頃を思い出し、切なさがこみ上げてきます。人生のなかのわずか3年間でしかないのに、あの日々はどうしてこんなに美しく記憶されているのか。

 ほとんどの新聞記者にとっても、高校野球は取材の「原点」です。一般紙、スポーツ紙にかかわらず、大学を卒業したばかりの新人記者は入社後、夏の高校野球地方大会の取材に従事します。そこで取材のイロハや、原稿の書き方、写真撮影について学びます。

 当然、競争ですから、致命的な失敗をすることもあれば、思うように原稿を書けずに苦しみ、激しい叱責を受けることもある。わたしもアマ野球キャップを通算4年務めましたが、灼熱の真剣勝負を経て、学生気分の抜けきれなかったモヤシっ子が、わずか1カ月で逞しい記者に成長する例を多数見てきました。

 様々な熱が渦巻く高校野球は、まるで心の故郷のようだ。きっと「彼」にとっても、大きく自らを成長させてくれた母校での日々は、何よりも貴重なものであったに違いない。日本ハム・斎藤佑樹投手は関東遠征のため都内に宿泊していた7月上旬のある夜、国分寺にある早稲田実業のキャンパスを、フラっと訪れています。

 15歳の春から3年間通い慣れた、国分寺駅と学校を結ぶ道のり。歩を進めるだけで、青春の日々が思い起こされたことでしょう。土曜の夜、校門は閉じられ、もちろんなかには入れませんでしたが、リフレッシュするにはまたとない機会になった。さわやかな表情で、門限までに選手宿舎へと引き上げていきました。伝説となった「2006年夏」以前の、無名の高校球児だった自分に「再会」できたのかもしれない。

 斎藤投手は現在2勝2敗。ここからだ、と強く思います。7月は新人の新聞記者なら連日、失敗の連続で意気消沈している時期。でも、悔しさをバネに現場へと出向き、前を向いてファイティングポーズをとれたヤツだけが、戦力になれる。失うものが何もなかった、あの頃の瞳で。強打者と、いい顔で対峙する斎藤佑樹を、これからも楽しみにしています。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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