スポーツ紙バカ一代

第52回 秋の夜。桑田真澄とエリック・クラプトン

2011.10.17更新

少年時代は野球とプロレスが二大娯楽でした。北関東の地方都市。放課後は仲間を9人集め、白球を追いかけました。あこがれはPL学園で甲子園戦後最多の20勝を挙げた天才投手・桑田真澄。巨人入りしてからも、応援歌を口ずさみながら、全身を稼働させた躍動感あふれるフォームを真似たものです。

顔面がニキビで覆われる思春期に突入すると、僕らは野球をやらなくなります。バットの代わりに手にするのは、ギターです。Cを覚え、Amを握り、Fを鳴らせるようになったら、もはや気分はロックスター。お前、ベースやんない? ドラムはアイツを誘おうぜ。野球は9人必要だけど、バンドは最低3人いれば、組めるんだ。

90年代初頭の文化系男子にとって、ロック史は日本史や世界史以上の必修科目でした。ブルーハーツやボウイを入り口に、ビートルズ、ローリング・ストーンズと学習は続く。教科書があるとするならば、ジョン・レノンやボブ・ディランとともに太字で記される重要人物はエリック・クラプトン。「いとしのレイラ」って、知ってっけ? すげーカッコいいんだわ。あんなの、弾けねえべよ-。

上京してから3年経った95年の秋。クラプトンが来日します。アルバイトで稼いだお金でチケットを購入し、会場の代々木第一体育館へと向かいました。「いとしのレイラ」はやっぱり、アンコールで演奏するのかな。「ティアーズ・イン・ヘブン」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」-聴きたい曲は、たくさんある。

開演を告げるアナウンスが流れ、照明が落ち、クラプトンが出て来た。「おおっ!」。十代の頃にあこがれたあの声、あのギターだ。でも、曲が何だか地味だぞ。ブルースに次ぐ、ブルース。いつまで経っても、ヒットナンバーを奏でる気配がない。何で演奏してくれないのかなあ。

チケットをよーく見ると「NOTHING BUT THE BLUES」とある。後から知ったのですが、この日のライヴはクラプトンがブルースの古典だけをカバーする世界ツアーで、その最終公演が日本だったという。だからかー。とはいえ「いとしのレイラ」は弾かなくても、やっぱ"スローハンド"のギターはすげえ。壮絶な音色に圧倒されました。

終演後、恍惚の表情で代々木第一体育館のトイレに赴くと、わたしは仰天しました。あれ、巨人の桑田だぞ。スーツ姿が決まっている。クラプトンを、聴くんだ。それにしても、強烈なオーラを放っている。「PL時代から、ファンでした。握手して下さい」。そんな言葉もかけられず、ガキの頃からブラウン管で見慣れたあの後ろ姿を、まじまじと見送ることしかできませんでした。

直後に駆け込んだ原宿駅前の居酒屋では、仲間とこんな話をしたものです。「ギターの神様を見に行ったら、ピッチャーの神様にも出会っちゃうなんてなあ」

それから十数年後、運命のいたずらか、私は巨人担当として桑田番を務めることになります。桑田さん、95年にエリック・クラプトンを見に行ってませんか。ボク、トイレで見かけたんですよ。そんな話題に、背番号18はこう応えてくれました。

「行ったねえ。あの頃は奥さんが『ティアーズ・イン・ヘブン』を好きでね。『クラプトン、何で演奏してくれなかったのかなあ』って話しながら、家に帰ったんだよ」

来月、クラプトンは19度目の来日公演を行うそうです。現役投手として桑田さんのピッチングはもう二度と見られないけれど、クラプトンのギターはまだまだ、堪能できるチャンスがある。16年前の秋、弾かなかった「いとしのレイラ」を聴きに、コンサートへ行ってみようかな。奏でてくれたらきっと、こう呟いちゃうんだろうな。

「あんなの、弾けねえべよー」

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

バックナンバー