スポーツ紙バカ一代

第57回 海を見ていた午後

2012.03.12更新

2月はプロ野球のキャンプ取材に忙殺されていました。自宅のある東京を離れ、日本ハムの名護、横浜DeNAの宜野湾、西武の南郷とそれぞれのキャンプを26日間、渡り歩きました。担当記者も朝から晩まで野球一色の生活。37歳になるおっちゃんにとっては、日々の取材と原稿書き、他紙との競争で、全身に疲労が蓄積していくばかりでした。

でも、楽しい思い出もあります。2月15日、日本ハムの名護キャンプは休養日でした。選手もゴルフに出掛けたり、釣りに行ったり、部屋でのんびりしたりと過ごし方は様々。とはいえ、記者に休養日はありません。スポーツ新聞は毎日発行され、読者はお気に入りの球団の記事を待っているからです。選手宿舎のロビーを張って、ネタ収集に勤しみます。

担当が長いと、ある程度行動パターンも予測できます。2年目を迎えた斎藤佑樹投手は、翌16日が登板日。朝から先輩達とゴルフに出掛けましたが、午後には自主練習するに違いない。ならば、きっと・・・。私はフルマラソンを完走した際に履いたランニングシューズを準備しました。斎藤はサブグラウンドでのキャッチボールを終えると、こう言います。「これから海岸を走ろうと思うんです」。読み通り! ご一緒しちゃってオーケイ!?

海岸線を南下します。太陽が東シナ海に反射して、まぶしく映る。去年から2月を名護で過ごしているけど、海がこんなにきれいだなんて、気づかなかった。

「いやー、佑ちゃん、気分いいね」

「去年はこんな風に自由に走れなかったんですよ」

「そうだよね。フィーバーの真っただ中で、常に警備員が帯同していたものね」

少しだけ、ペースが上がってきた。全身から汗が噴き出します。

「宮川大輔さん、自分、めちゃくちゃ好きなんですよ。『すべらない話』、すごく面白くて。こんな話、知っていますか。えーとですね・・・」

走ってる最中も、そう言って笑わせてくれます。普段、テレビカメラを前にした囲み取材で見せる顔つきとは少しだけ違う。ありのままの23歳の表情が目前にはありました。中学校の前を通ると、下校中の男子生徒が「あれー!?」と驚いていた。いつもの通学路を斎藤佑樹が走っている。そのイレギュラーぶりに当惑したようです。

そして30分経過。高台の名護城址へと向かう階段は454段もあります。しかも、かなり急です。「歩こうよ」。そう提案しようと思った瞬間、斎藤は一気にダッシュで駆け上っていきました。必死に追いかけますが、背中は遠くなるばかり。ああ、もうダメだ。歩こう。ゼイゼイ。ほうほうの体で頂上にたどり着くと、「いい眺めですね」と笑顔で出迎えてくれました。素晴らしい眺望です。

「もうそろそろ帰り、行きましょうか」

えー、全然、足が動かないんだけど・・・。

「オレはもうちょっと休むわ。先に行ってて。コメントは宿舎でよろしくね」

斎藤は軽快に階段を下りると、復路を疾走していきました。残されたわたしは完全にグロッキー状態。454段をトボトボ歩いた後、タクシーを拾うことにしました。「日本ハムの選手宿舎まで、お願いします」。そういやオフの間、集中的に股関節を鍛錬したって言ってたっけなあ・・・。

斎藤佑樹の凄味を体感した「海を見ていた午後」。鍛え抜かれた下半身と一緒に走る「密着取材」には限界がありました。わたしは一足先に宿舎へ移動すると、まるで山手の「ドルフィン」にいるかのように、ロビーでソーダ水をすすり18番の帰りを待ちます。爽やかに汗をかき、ニヤニヤとこちらに近づいてきた斎藤を見て、こう負け惜しみを言うのでした。

「佑ちゃん、遅いよ!」

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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