スポーツ紙バカ一代

第59回 恩師よ

2012.05.14更新

高校時代って、長い人生でわずか3年間だけなのに、なぜこれほど大きな時間なのだろう。不思議に思います。あの頃の仲間は今でも、損得抜きで付き合える貴重な存在。照れくさいけど、宝物のようなものだ。そして進むべき道を照らしてくれた、恩師も。

2004年、夏の甲子園。わたしはひとりの投手に夢中になりました。名門・横浜高校のエース、涌井秀章。あの松坂大輔もつけたエースナンバーを背負い、灼熱のマウンドで細い体を躍動させては、力投を演じました。準々決勝では、北海道勢で初めて「優勝旗の津軽海峡越え」を果たした駒大苫小牧に敗れましたが、投げれば投げるほどに球威を増していくような心身のスタミナには、ただただ驚嘆するばかりでした。

どうして、横浜高校はこれほどまでに好投手を輩出するのか。野球ファンならお馴染みの名伯楽がいるからです。小倉清一郎コーチ、67歳。若き才能を発掘し、相手の投手や打者を丸裸にしてしまう「眼」を持った指導者です。当時は野球部長として、涌井の素質を見抜き、徹底的に下半身を鍛え上げるなどの猛練習を課した。現在の涌井があるのも、小倉コーチの指導の賜物でしょう。

かつて2009年には沢村賞にも輝いたライオンズのエースが今季、大きな壁にぶつかりました。開幕3連敗。一向に調子が上がらない涌井に、西武・渡辺久信監督は無期限の2軍降格を通告しました。「もう一度、作り直してこい」

ファームでは朝から若手とともに鍛錬に励む日々。屈辱からはい上がろうとする背番号18に、小倉コーチはこんなアドバイスをしたと明かしてくれました。

「涌井のフォームはきれいなフォームだよね。打者から見ると、威圧感がない。だから、できるだけ投げる時にボールを隠さなきゃならないんだよ」

「いい時と比べて、ユニホームの『LIONS』のマークが0・2秒、早く打者に見えてしまう。『正面を向くのが早い。球離れが早いんだ。もうちょっとケツからいけ。そのためには下半身の粘りが必要だ。もっと走れ』と言ったんです」

「『涌井はよく走る』って西武のなかでも言われているかもしれませんが、僕と一緒に練習していた高校時代に比べれば、まだまだ。そこを鞭打ってやれるかどうかですよ。そうしてコントロールを良くすれば、十分立ち直れると思います」

プロ入り以来、先発完投型として奮投してきた涌井ですが、1軍復活の「舞台」は意外なものでした。ストッパーへの配置転換がなされたのです。渡辺監督は「守護神・涌井」を決断した理由について「一番はクローザーがいないこと」と話しつつ、こう説明します。

「調子が良くなくて、2軍に落とす時も『今のままのピッチングスタイルでいいのか?』というのがあったんだよね。1球で仕留めたり、緩急をつけたりするピッチングができていなかった。短いイニングを投げることで、新たな投球スタイルを見出して欲しいと思ったんだ。復活させるためには、アクションを起こしていかないと。2軍で先発の調整をしていても、どれだけ変わり身があるのかということだから」

2012年5月13日、函館オーシャン球場で行われた日本ハム戦。4-3と1点差に迫られた9回裏、涌井は荒れたマウンドへと歩を進めました。走者を許し、ピンチを招きますが、バックの堅守にも助けられ、無失点に。プロ8年目で初セーブを挙げました。一度は地獄を見た男に、光が差した一日。小倉コーチの声も、携帯電話の向こうで弾んでいました。「数多くいる教え子のなかでも、僕はあの子が一番、好きなんですよ」

卒業から何年経とうが、恩師は温かい眼差しで教え子の行く末を見守ってくれている。小倉コーチの声には、涌井を思う優しさがにじみ出ていました。そうだ。夏になったら、高校時代によく叱ってくれた、あの先生に会いに行こうか。ゲームセットの瞬間、無数のフラッシュを浴びる涌井を見つめながら、そんなことを考えた函館の夕暮れでした。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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