スポーツ紙バカ一代

第60回 若獅子の咆哮。西武・秋山翔吾に刮目せよ

2012.06.11更新

初めてロック・コンサートに行った時のことを、覚えていますか。僕は鮮やかに想い出せる。88年師走。茨城県民文化センターで行われたザ・ブルーハーツのライヴ。ステージで暴れるヒロトとマーシーが眩しすぎて、14歳だったわたしは全身に電流が流れまくりでした。

「このまま僕は汗をかいて生きよう ああ、いつまでもこのままさ」

彼らのデビュー曲でもある「人にやさしく」に散りばめられた詞はすべてストレート。なかでも、この一節がとても好きです。そして取材に向かう西武ドームでは、いつも爆音でこの曲が聴けます。西武の2年目・秋山翔吾外野手の「出囃子」だからです。

神奈川・横浜創学館の出身。八戸大で頭角を現し、2010年のドラフト3位で西武に入団しました。楽天・田中将大、日本ハム・斎藤佑樹、巨人・坂本勇人、沢村拓一、広島・前田健太ら好選手を輩出した「88年世代」のひとりです。

プロ各球団のスカウトからは大学当時から「足と肩はすでに即戦力レベル」と聞いていましたが、秋山にはもうひとつの大きな「才能」がありました。努力し続ける力です。試合がなく、練習も休みとなる月曜日、プロ野球担当記者はネタ不足に陥ります。朝から所沢に向かい、西武ドームに隣接した2軍の本拠地「西武第二球場」にたたずんでいると、室内練習場には必ず秋山の姿がありました。たったひとりで、打撃マシンを打ち返している。バットとボールがぶつかる乾いた音が、響き渡っています。

練習を終えた秋山に「いやー、熱心だねえ」なんて語りかけると、「自分、下手くそなんで、練習しないと上手くならないんですよ」と応えてくれました。春先も、夏場も、オフも、いつもそう。まるで朝起きたら歯磨きをするかのように、当たり前の表情で心身を研ぎ澄ませていた。練習はウソをつかない。ルーキーイヤーは1軍で110試合に出場し、走攻守で存在感を見せつけました。

だが、好事魔多し。スタートダッシュするはずだった2年目の今季。秋山は左太もも痛に苦しみ、開幕を2軍で迎えました。2カ月ほど、まともに野球ができない日々が続いた。それでも1軍の舞台へ、気持ちが切れることはありませんでした。なんと開幕直後にはお忍びで西武ドームネット裏の客席に座り、1軍の試合を観戦していたと明かしてくれました。

「ファンの歓声、やっぱ凄いなって感じました。結構、グラウンドからじゃ気づかないこととか、見えなかったこととか、あるんですよね。完全に治して、早く戻りたいと思いながら、観ていました」

4月下旬、1軍に復帰した秋山は、今季さらなる進化を見せています。打順は3番・中島裕之、4番・中村剛也に続く5番を任され、3割近いアベレージをマーク。(6月11日現在)。守備や走塁はたまにミスもありますが、それは彼が発展途上であることの証明ともいえる。失敗を肥やしに、日々が勉強のことでしょう。

西武ドームに「人にやさしく」が鳴り響く。ネクストバッターズサークルを出た秋山が、打席に立つ。左翼席から聞こえるファンの大合唱。そして「ガンバレ!」の大声援。飛び散る汗、魂を込めた全力プレー、全力疾走こそが極上のエンターテインメントを生み出すのだと、あらためて気づかされます。そういえば、ブルーハーツのライヴが最高だったのも、そんな理由だったっけな。

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加藤弘士(かとう・ひろし)

1974年4月、茨城県水戸市生まれ。水戸一高ではプロレス研究会に所属。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、97年に報知新聞社入社。広告局、出版局を経て、03年からアマ野球担当。05年にはアマ野球担当キャップ。06年は巨人番(投手担当)。07年からアマ野球キャップに復帰し、09年には楽天・野村番。10年はまたもやアマ野球キャップを務め、斎藤佑樹の大学ラストイヤーに密着。11年は日本ハムと西武の遊軍記者。好きな言葉は「そのうち何とかなるだろう」。カラオケの十八番は「夜空」(五木ひろし)。173センチ、61キロ。右投右打。

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