数学の贈り物

番外編「私をつくった◯冊の本」(2)『自分の頭と身体で考える』

2016.02.15更新

  『自分の頭と身体で考える』(養老孟司・甲野善紀著、PHP研究所)         ――勝手にどんどんやっていく。

 「雀鬼」の存在を僕に教えてくれたH先生は、しばしば「異界」から不思議なモノや情報をバスケ部にもたらしてくれた。最後まで中身が明かされることのなかった謎の「栄養ドリンク」や、目眩がなおる瞑想法、インドの宗教家の神秘体験を綴った古書など、中には随分怪しいものもあったが、いつも情熱的にいろいろな物事を僕らに紹介してくれた。なかでも、先生がもたらしてくれた最大の出会いは、武術家・甲野善紀先生との邂逅である。

 一九九九年の春、H先生の紹介で、甲野先生に一日だけバスケ部にいらしていただき、技の講習会が開かれることになった。和服を着て高下駄を履き、真剣を携えて体育館に現れた先生の姿を、いまもはっきり記憶している。大きな体育館で、中高の部員が先生を囲み、予定を超えて何時間にも及ぶ講習になった。当時僕は中学生だったから、先生が先輩たちを相手に技を実演する様子を、遠くからじっと観察していた。
 先生の佇まい。時折、何かを感じ取ろうとするかのように、静かに上を見る仕草。ひとつひとつの言葉を慎重に確かめながら、技の原理を解説するリズム。何気ない視線の動きや呼吸の間合い。――そうした様子の仔細をその日、僕は自分の目に焼き付けた。
 何より印象的だったのが、慣れないバスケットボールを持ち、長身の先輩たちと押し合ったりするのを、誰よりも先生自身が楽しまれていたことである。身体のことを考えることが、楽しくて楽しくてしょうがないということが伝わってきた。
 以後僕は、高校のキャプテンだった先輩と一緒に、何度か甲野先生の道場に通うことになる。三歳上のキャプテンと一緒に行動するだけでも緊張していたから、そのうえ道場で先生を間近にすると、とても自分から口を開けないくらい恐縮した。先輩と一緒に、まるで「聖地」に出かけるようなつもりで、道場に通った。道場行きが決まると数日前から、気持ちがぎゅっと引き締まった。身心を清めてから臨まないと、自分の中のすべてが見透かされてしまうような気がしたのである。

 ちょうどその頃、甲野先生と養老先生の対談本『自分の頭と身体で考える』(PHP研究所)が出版された。いまでもこの本の表紙を見るたびに、ドキドキしながら先生の道場に通った頃の記憶が蘇ってくる。
 先日、久しぶりにこの本を読み返してみた。あらためて読むと、かなり辛辣な日本社会への批判が繰り広げられている。解剖学と武術という切り口こそ違え、「身体」の探究をバックグラウンドに持つお二人が、容赦なく世間の「常識」に立ち向かっていく。まだ世間を知らない中学生だった当時の僕は、幸か不幸か、ここに書かれていることをすべてそのまま、「常識」として受け取ってしまった。
 例えば、養老先生が「学歴」について語る、次のような一節がある。

   学歴というのは、要するに卒業しないからあるんです。いったん入ったら、僕
  は死ぬまで「東大卒」です。もうそれを絶対に忘れてもらえない。

   それが学歴の意味ですよ。それが共同体なんです。「俺は何とか会に属して
  いる」というヤクザと同じで、暗黙のうちにそこに属しているんです。(中略)
  学歴というのは、共同体の所属を表している、という意味しかないんです。
   それでヘソ曲げて、経歴も出さないでいると、出版社でも講演会でも、必ず
  「履歴を送れ」と言ってくるんですよ。そこで「そんなもの、送らない」と言う
  とどうなるかというと、揉める(笑)。「何でもいいから送って下さい」ってう
  るさいんですよ。勝手に書いてくれって、僕はいつもそう返事します。すると今
  度は「写真を下さい」。こっちは「骨でも載っけとけ」と答えるものだから「あ
  いつは滅茶苦茶だ」と言われる(笑)。


 翻って、養老先生が虫について語るとき、あるいは甲野先生が技の展開について語るときは、まるで少年のように明るい。大好きなことについて語るときのお二人は、本当に生き生きとしているのだ。甲野先生にとっては技が、養老先生にとっては虫が、広大な自然の「不思議」の世界への入り口なのだ。
 養老先生は言う。

   要するに不思議ということが当たり前なんですよ。ところが、普通の人間の作
  る世界って、不思議でないのが当たり前でしょ。不思議なことは少ないと思って
  いる。そうじゃないんだ。不思議なことの方が、当たり前なんです。

 教科書や授業は、「不思議でないのが当たり前」の世界だったが、僕は「不思議ということが当たり前」の世界を生きたいと思った。そういう世界からこそ、本当の探究は開けるのだと、この二人の先生から学んだのだ。
 お二人の別の対談本『古武術の発見』(光文社智恵の森文庫)のあとがきの中で、養老先生はこんなことを書かれている。

   体操であれ、武道であれ、身体を突き詰める人には、学問に通じるところがあ
  る。というよりそれが学問そのものだ、と思えてしまう。だから、甲野さんを見
  ていて、なるほど文武両道か、と思ったのである。文と武とは、まったく同じも
  のか、と。もちろん、こういう言い方は、ひょっとすると誤解を招く。武道にせ
  よ、学問にせよ、あるできあがった筋道なり、やり方なりが、すでに存在してい
  る。名人とは、それをいちばん先端までたどった人だ。そういう考えが、この国
  では、多いような気がするのである。
   そうではなくて、武道そのもの、それを武道を通して考え、体得する。そこが
  学問だと言いたかったのである。科学の世界にも、それに近いことはたくさんあ
  る。パストゥールが最初に解いた問題は、学会の懸賞問題だった。以後、彼の仕
  事は、すべて頼まれ仕事である。だからといって、パストゥールの研究の価値が
  下がるわけではない。他方、ファーブルの仕事は、誰に頼まれたわけでもない。
  勝手にどんどんやっただけのことである。どちらも、立派な学問である。だから、
  武道では、強くなければならないであろう。試合には勝つ。それは、パストゥー
  ルである。でも、いつでも素直に考え、観察しなくてはならない。それはファー
  ブルである。


 甲野先生との出会いは、僕の生涯最初の「学問」との出会いであった。それは私に、ファーブル的な探究の理想を教えてくれた。そして、自分もそのように生きたいと思った。ならば、誰に頼まれたわけでもないけれど、「勝手にどんどんやっ」ていくしかないだろうと、僕は静かに心に決めた。
                       
                                (つづく)


*本書は出版社で品切れ重版未定のため、フェアには並んでいません。ご了承ください

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森田真生(もりた・まさお)

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。全国で「数学の演奏会」をはじめとするライブ活動を行っている。2015年、デビュー作『数学する身体』(新潮社)を上梓し、第15回小林秀雄賞を受賞。2016年、編纂を担当した岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)が刊行。2016年1月には、ライブで手売りすることを元に作られた『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)が刊行となった。
ミシマ社では、数学にまつわる本を紹介しながら、数学を通して「生きること」を掘り下げるトークライブ「数学ブックトーク」を、京都と東京で共催している。

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