数学の贈り物

2017.07.01更新

 明日から2週間ヨーロッパに出かける。ちょうどこの原稿が掲載される頃に、最初の目的地パリに到着している予定だ。今回はパリ、ロンドン、ブライトン、ウィーンをまわりながら、いくつかの講演と取材、それから英語で岡潔についてまとめて書く予定の本の打ち合わせなどがある。

 今年から、なるべく自分で機会をつくって、海外での活動を増やしていこうと考えている。一つには仲間探しだ。自分の考えていることを、世界中で発信し、志を分かち合える仲間を見つけたい。もう一つは、日本語から離れる時間をつくることだ。

 僕は小さい頃アメリカで育ったので、もともとは嫌でも日本語から離れてしまう環境だった。小学校4年生で日本に帰国したときに、日本語が母国語として、自分の中に深く根付いていないことを実感することも多かった。だからこそ、どんどん海外に出ていこうという気持ちよりも、あえて日本にとどまって、日本語を血肉化したいという思いも強かった。しかしそろそろ、日本語だけでなく、他の言語で思考し、対話し、読み、書く時間をまた増やしたいと思っている。それは単に、英語のようなもっと「グローバル」な言語を使いたいということではない。

 言葉はもちろんコミュニケーションの道具だが、それ以前に自己を編む糸である。言葉を発することは、何かを伝えるだけでなく、世界を生み出すことである。だから、少しでも多くの人に通じる言葉を使えばいいという問題ではない。どんな言葉を使って、どんな自己を編み、どんな世界の風景を生み出していくかだ。

 人は誰もが局所的な存在である。「スミレはスミレのように咲けばいい」と言った岡潔の言葉の通り、いのちあるものはすべて、自分の咲いている小さな場所で、めいっぱい咲く。そうした局所的な表現が貼り合わさって、豊かな世界が全体として立ち上がる。だから、日本語を母国語とする自分は、徹底的に日本語で思考しよう。そこからしか見えない風景、そのようにしてしかぶつからない問題をしっかり掴もう。そのように考えていた。

 ところが、最近さすがに、あまりにどっぷり日本に染まりすぎているかもしれないと感じることがある。今回も旅行の荷造りをしていて、3年前に使ったユーロ硬貨を整理していたあとに、自販機で100円玉を入れようとしたら、一瞬「これが100円か?」と違和感を覚えた。ユーロやポンドの貨幣に触れたあとにまた日本の硬貨に触れると、当たり前になっていた100円の100円らしさより前に、物質としての100円玉の生々しい「そのものらしさ」が迫ってきたのだ。ああ、自分はこういうことにも気づかなくなるくらい、日本の制度に浸かってしまっているのだなとあらためて思った。

 小さい頃は、英語の方が得意だった。10歳までは、小説を読むのも、夢を見るのも、妹と会話をするのも英語だった。だからこそ、日本語を面白く感じた。特に、中高時代の古文漢文は楽しくて仕方なかった。古典の音読に夢中になった。それこそ「これが100円なのか?」というような、素朴な驚き、違和感、発見がいくつもあった。そのことをとても面白く感じた。

 何かを「知る」ことは、知ろうとしている自分が、いかに「ある」かということと繋がっている。知ること(knowing)とあること(being)を切り離すことはできない。日本人としてあることが、日本人として知ることを可能にする。そうやって局所性を掘り下げていくことこそ、大域的に普遍性のある思考に通じるのである。日本が特別に素晴らしいということではなく、たまたま日本人として生まれ、日本に家族を持つ自分が、日本語という制度のなかでどこまでも思考する。そこから見えてくる風景をとらえる。それはいまでもそう思っている。

 しかし、日本語から離れる時間を持つことで、かえって日本語が見えてくるということもある。言葉を変えることは、beingを変える一つの方法である。言語を切り替えるだけで、自分の性格や発想、目の前に広がる風景の見え方までもが変わる。

 いま岡潔のエッセイ『春宵十話』の英訳をしている。1963年に講談社から出版されて以来、半世紀以上、誰も手を付けてこなかったのだが、自分で翻訳を試みてみると、その理由がわかる気がする。

 まず、冒頭の「はしがき」が「人の中心は情緒である」という一文からはじまる。ここでいきなり「情緒」をどう訳せばいいかという問題にぶつかる。

 手元にある『新和英大辞典』(第5版)を開いてみると、「情緒」の訳として「emotion; feeling; 〔雰囲気〕atmosphere; spirit」とある。そして例文には、

  情緒豊かな人間性の形成
  the formation of a richly emotional humanity

  日本情緒豊かな温泉町
  a spa town richly imbued with Japanese atmosphere

などとある。

 確かに、文脈によってはemotionやatmosphereはそれなりに納得できる訳である。しかし、「情緒」というときには、単にemotionのことでもなければatmosphereのことでもなく、個人の感情や情動(emotion)と周囲の環境の雰囲気(atmosphere)とが、相互に浸透し合っているというニュアンスがある。それこそknowing(何を感じ、わかるか)とbeing(環境の中にどのようにあるか)が切り離せないという前提がこの言葉の背景にはある。そのニュアンスを、英語でどう表現したらよいだろうか。

 さらに問題なのは、岡潔が「情緒」という言葉を日常的な意味では使っていないことである。彼は「こころ」と題したエッセイの中で「(私は)『情緒』という言葉を作った」と書いている。彼自身が「作った」言葉としての「情緒」のニュアンスを、一言で説明するのは日本語でさえ難しい。しかも「人の中心は情緒である」であるというのは彼の主張の核心である。

 現状で僕は、岡潔が作ったある種のテクニカルタームとして、「情緒」は訳さずにそのまま残すことにし、最初の一文は、

The essence of a person is jōcho.

と訳した。

 しかしもちろんこのままでは何のことかさっぱりわからないので、長めの脚注を付した。その内容は、以下のようなものである。

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The usual connotation of the Japanese term "jōcho" is that of emotion or feeling triggered by the atmosphere, or the atmosphere itself. However, Oka states in his essay "Kokoro" that "I made up the term jōcho in order to study the human mind" and since this is the key term to understand Oka's philosophy, I will leave this term untranslated throughout. The problem is that Oka never clearly defined what he means by this word, and he even states clearly in an essay titled "Inochi" that "jōcho is a word that has no definition in the first place." Instead of trying to define the term, he shows how this concept works in several different contexts. In a way, all of his writings, were an attempt to clarify the meaning and depth of the concept jōcho.
The term jōcho written in Japanese, consists of two ideographs "情[]" and "緒[itoguchi]." The former carries various meanings such as feeling, sentiment, attachment, passion, love or emotion which in any case connotes the motion or flow of the mind which penetrates between individuals or in between a person and the environment. The latter ideograph "緒" implies a beginning, a trigger or a clue. In Oka's thinking, based on Buddhist philosophy, the mind is latently omnipresent in the universe, and , which is an aspect of this omnipresent mind, moves or flows in between a person and his / her surrounding. Each existence of a being (not necessarily human) acts as a trigger[=緒] to actualize the latent mind into a personal mind, and realizes the flow of in the form of a personal feeling or sensation. Jōcho, in Oka's original sense, so far as I understand it, refers to this cognitive capacity (which he thinks can be cultivated through education) to localize and actualize the global flow of into a particular feeling or sensation. But it is in his later writings in which he begins to clarify these ideas, and in his earlier essays, including this one, the connotation of the term jōcho is still quite vague.
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 通常の意味での「情緒」には、環境の様々な要因によって引き起こされる情動や感覚、感情、あるいはそうした感覚を引き起こす環境の雰囲気そのものを指す意味合いがある。しかし岡潔はエッセイのなかで「『情緒』という言葉を作った」と言っているし、別のエッセイの中では「情緒というのはもともと定義のないことば」だとも書いている。情緒という概念を最初に規定した上で論を構築していくのではなく、情緒という言葉を様々な文脈で使用しながら、その使用を通して概念の内容を明らかにしていくような方法を取るのだ。岡潔の旺盛な執筆活動は、「情緒」という言葉の内容を明らかにしようとする過程そのものだった側面がある。

 情緒は「情」の「緒」と書く。「情」は文脈に応じて様々な意味を持つが、英語に訳すとしたら、feeling, sentiment, attachment, passion, love, emotionなどとなるだろう。いずれにせよ、個々人の間や人と環境の間を行き交う心の動きを表した概念である。岡潔は生きとし生けるものすべてに心があると考えていた。しかもここで「生きている」と言うとき、生物としての自律性を持っているものだけではなく、水や石などの物質もまた含まれていた。したがって、彼は万物に心があると考えていたのだ。「情」は、誰か特定の個人が所有している心ではなく、万物の間を行き交う心だ。それを、個々の存在が、その局所的な身体(body)を「緒」として、それぞれのfeelingやsentiment, emotionへと具体化していく。「私の心」は、心なき物質の集合的な振る舞いとして生じるのではなく、心に充ちた宇宙の局所化として生じる。「情緒」とは、大きな「情」を小さな「私の心」として局所化し、具体的に表現するある種の認知的なメカニズムのことである。現時点では、僕はそのように解釈している。

 英語で書いた脚注の内容を、大雑把に日本語にしてみると以上のようになる。

 面白いのは、最初から日本語で書き、日本語で思考していたら、上のような「情緒」の解説は思いつきようもなかったはずだということである。情緒という言葉はあまりに深く日本語の中に浸透していて、岡潔のエッセイを読んでいても、ほとんどひっかかりなく読めてしまうのだ。ただし、ひっかからないということはわかっているということでは必ずしもなく、ただ単に考えていない、という場合もある。

 単純なことだが、英語と日本語の間を行き来していると、漢字を用いる日本語の表記と、アルファベットの並べ替えだけですべてを表現する英語の表記との圧倒的な違いをあらためて感じる。漢字はそのデザインがすでにたくさんのことを考えてくれているから、使用するこちら側の認知的な負担が少ない。逆に英語は、文字の中に思想や歴史が刻まれていないから、概念を解体し、組み立てなおす自由度が高い。

 その結果、日本語を使っていると、歴史や文脈が思考してくれる割合が相対的に高くなる。アルファベットを使うと、自分の方で思考しなければならない事柄の割合が逆に高くなる。どちらがよいということではなく、とにかくとても違うのである。しかもこうした違いは、両者の間を行き来してみてはじめて見えてくる。僕はこういう往来をもっとしたいのだ。

 身軽に動くことと根を下ろすこと。
 その両立ができたら理想的である。


 さて、いよいよ出発の時間が近づいてきた。
 行って、戻ってきたあとに、「はじめから自分がいた場所」が、どんな風に変わっているかが、いまからとても楽しみである。


独立研究者・森田真生さんによる「数学ブックトークin京都」を開催します。
数学って、生きてくって、なんだ? ということを縦横無尽に語り、掘りさげる、
独立研究者・森田真生さんによるトークライブです。ぜひ!

数学ブックトーク in 京都 2017 夏

・日時:2017年8月6日(日)
    開場17:30/開演18:00 (3時間程度)

恵文社一乗寺店 コテージ
〒606-8184 京都市左京区一乗寺払殿町10

・参加費:4000円(学生・ミシマガサポーターの方は3000円)

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森田真生(もりた・まさお)

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。全国で「数学の演奏会」をはじめとするライブ活動を行っている。2015年10月、デビュー作『数学する身体』(新潮社)を刊行。2016年2月には、編纂を担当した岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)が刊行となった。ミシマ社では、数学にまつわる本を紹介しながら、数学を通して「生きること」を掘り下げるトークライブ「数学ブックトーク」を共催。2016年1月には、ライブで手売りすることを元に作られた『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)が発刊された。

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