すみちゃんのめひこ日記

第2回 ごちゃごちゃのメヒコ、すっと入れるメヒコ

2016.04.10更新

 メヒコに到着して1カ月が経とうとしています。
 やはり、身体がちょっと弱りました。
 たまにお腹がなんとなくゆるくなり、すぐ睡魔に襲われ、標高2240mのせいか通学路を歩くだけで激しく息切れし、乾燥していて目がよく疲れます。こちらにきてすぐに覚えた単語は、 "contaminación" (コンタミナシオン=汚染)。首都の大気汚染のせい? なのか、正直に言うと、鼻○ソが前よりも黒くなっている気がする・・・。信頼できる統計(留学生仲間への自主アンケート)によると、黒くなったのは私だけではないので、鼻○ソとメキシコには何らかの関連性があると思われます。汚い話ですみません。

 先日、通学のために地下鉄の駅へ行ったら、改札を無料で開放していました。何が起きているのかさっぱりわからなかったので、「お前は払え」と咎められやしないかと、ハラハラしながら通過(ささいなことでも不足の事態に直面すると、「外国人枠」としてびくびくする日々です。被害妄想)。これは、自動車の運転を規制する代わりに地下鉄をタダにして、大気汚染を解消しようという政府の方針の一環のようです。入国してまもなく地下鉄タダ乗り政策が開始して、その恩恵に浴せるなんて、ある意味ラッキーですが、それほど "contaminación" は喫緊の問題ということです。たしかに大きな道路沿いを歩くのは不快で、鼻がツンツン頭がガンガンします。目を細めながら「くっせえな今日も」と悪態をつかないと、やっていけません。汚い言葉ですみません。




 地下鉄といえば、車両のなかには警備目的の警察官が乗り合わせていることがよくあります。あるとき、ラッシュ時の女性専用車に乗っていた男性警察官が、おんなのひとたちに埋もれながら、ホームで待機している別の警察官仲間に向かって、嬉しそうにピースしているのを見ました・・・。メキシコの地下鉄は非常に発達していて便利なのですが、日本と違うのは、(警官が素直、という一例に加えて、)時刻表が無いというところでしょうか。駅に着く、ホームで待つ、電車が来る、電車に乗る、以上。駅には時計がありますが、正しい時刻を刻んでいるものは滅多にありません。本当に、めっっったにありません。ふつうなら「管理が雑」という評価を加えるべきかもしれませんが、どこもかしこも時計がずれているので、もはやこれは何かに対する一種の「抵抗」なのではないかと思えてきて、思索の深まる今日この頃です。

 メキシコの人は多くが、よくしゃべり、そして細かいことを気にしないでいてくれます。留学生にとってこれほどありがたいシチュエーションはありません。「友だちとパーティをやるからおいでよ」と誘われて行ってみると、会ったこともない人の誕生日会だった、みたいなことがよくあります。そこに見知らぬアジア人がいることを誰も気にしていない。不思議な孤独と自由を味わえます。

 あくまでわずか1カ月の経験からの推測に過ぎませんが、ここにいる人たちは、もしかすると、「みんないっしょである」というイメージをそれほど求めないのかもしれません。
 通っている語学学校では、この国について、contaminación と同じくらい大きな特徴として、"megadiverso"(メガディベルソ。=超多様な)という言葉が頻繁に使われます。これは、日本の約5倍の面積を擁するこの土地の、気候の多様性、自然の豊かさを表している言葉なのですが、それ以外の観点からも、メキシコというものは私の目に「超多様」に映ります。

 メスティソ、先住民、スペイン系白人とされる人びとなどが暮らし、言語も多様で、広大な(身体的な実感を伴ってこの国の全体を把握することはかなり難しいのでは、と思えるくらい広大な)国土の各地域では、生活様式も全く異なる。日本にいたころ教科書的に受け取っていたこういう情報は、やはり現地で暮らし始めてこそ、その場所が抱えている差異の厚みをくっきりと伝えてきます。しかし私は、あらゆる状況のなかでも、ひときわ「様々なメキシコ」を自分に見せているのは、やはり、人びとの経済格差であると直感しています。

 「メキシコでは貧富の差が社会問題となっています」というよくある説明が、少しアホらしく思えるほど、それはしっかりと、ずっと、存在しています。街を歩けば、誰でも、強烈な「差」を感じます。ここで暮らしている人たちは朝から晩まで、文字通り「色々な状況の人と隣り合わせ」になって、でもさしあたっては「自分の生活」を全うしています。日本でもこんなイメージは寝言であることに変わりないのですが、それでも、メキシコでは、これがいわゆる庶民の普通の生活、という共通イメージが、(たとえ友達のあいだであっても、)ほぼ無いと言えそうです。

 このような多様性が、メキシコの「わたしたち」と日本の「わたしたち」のつくられかたの違いに影響していることは、あながち間違いではないと思います。良いのか悪いのかの価値判断とは別の話です。ごちゃごちゃしているからこそ、すっと入っていけてしまうような何かがある。それは、前述のとおり、孤独と不思議な自由を与えてくれる気がします。みんなでいるときの孤独と、みんなでいられる自由。
 だから、ぬるい私は、メキシコに来てはじめて、「シャカイがどこにもない」という不安に襲われました。あたりまえのことかもしれないのに。

 そんな衝撃を味わいながらも、なぜ彼らはこんなに口説いてくるのか、というような、しょうもない話を友人とするのが私の日常の大部分です。
 「なんで彼らはこんなに口説いてくれるんだろうね。日本ではさ、みんな自分をある程度隠して、"まともに"振る舞おうとするよね。でもここの人って、素の姿を全開にしている気がする。変な人と思われる可能性を怖れないっていうか。実際みんな、誰が変とか、あまり気にしないし」。友人が、まったく気楽な文脈のなかで放った、このギリギリ(アウト)の発言には、しかしけっこう重要なことが詰まっているように私は思います。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

角智春(すみ・ちはる)

1995年生まれ。島根県出身。耳の垂れた犬が好き。盆と正月には愛犬のビーグルと出雲大社周辺を散歩する。東京外国語大学でスペイン語を専攻。ゼミでは人類学&現代思想を真面目に勉強し、指導教員に「スミさんには、“自由とは何か”を考えはじめて200年、みたいな趣きがある」と言わしめた。

バックナンバー