すみちゃんのめひこ日記

第3回 「治安」は大丈夫?

2016.05.21更新



 メキシコの同世代との会話は、日本の話題について盛り上がることがけっこうあります。

 Viajar(ビアハール)は、「旅行する」という意味の動詞です。友人と4人で、Tepoztlan(テポストラン)というところへ旅をしました。メキシコシティから車で1時間半くらいの、小さい都市です。街のどこからでも、Tepozteco(テポステコ)という巨大な山岳を眺めることができます。日本と地質のまったく違う、ディズニーランドのアトラクションでしか見たことのないような山が、文字通りどーんと切り立っています。
 メキシコのすごいところは、そこらへんにある自然の規模がいちいち大きすぎるというところです。高速バスに乗っていても、街から街への普通の道なのに、その両脇に広がる景色がありえないくらい雄大。引くくらい雄大。ボーっと窓のそとを眺めていると、「ここどこ!?」とギョッとすることしばしばです。一度、バスを乗り間違え、「荒野の真ん中に道が一本」みたいな場所で「対向車がくるまで待ちな」と降ろされたことがあります。緊急事態なのに、絶景。大自然に抱かれて、色々な意味で半べそをかきました。

 Viajarといえば、旅を共にした友人が、「ドラッグを吸っておかしくなることをviajarというんだ」とつぶやいていて、おもしろいなと思いました。気分が高揚して浮遊する感覚、あるいは幻覚を見ることを、旅に例えているのでしょう。彼女たちはメキシコの大学生なのですが、ちょっと東洋趣味っぽいところがあり、たとえば家に遊びに行くと、仏教画の掛軸が間接照明で照らされている、みたいな部屋の仕様になっています。部屋でよく瞑想をすると言っていました。マッシュルームのぬいぐるみが、例の照明で薄闇にぼんやりと浮かび上がっているのをみたときは、もふもふした気楽なドット柄のそれと、「マッシュルームでviajar」というイメージが暗示するおぞましいメッセージとの狭間で、シュールの極みを味わいました...。

 悪い冗談はさておき、とにかく彼女たちはアジア好きなのです。神道や仏教の話をすると、身を乗り出して聞いてくれます。どういう流れだったか、「おりん」(仏壇に置いてある、チーンと鳴るあれ)を見せてきたことがあります。そんなものをどこで習ったのか、という疑問を抱く間もなく、鳴らし方のレクチャーがはじまりました。「熱帯の花が咲いている庭を見ながら、日本人がメキシコ人の指導のもとでチーンをやっている」という混沌とした状況に、さすがの仏具をもってしても私の心は一切鎮まりませんでしたが、それはそれとして、いつもなかなか楽しい異文化交流をしています。

 「日本のアニメが好き。あ、でも、"ヘンタイ"以外ね」。あるとき別の友人とSushi Rollo(スシロージョ。=メキシコ風になった巻き寿司。マンゴーなどがネタになっているけれど、けっこう美味しい)を食べていたときのことです。成人向けアニメのことを"ヘンタイ"と呼ぶのか・・・と彼女の話に耳を傾けていると、その話し方に、わずかに独特の抑揚があることに気が付きました。以前、誰かが言っていた、「抑揚のある話し方をする人は、貧しい人に多いんだって」という言葉が、それまで大して気にも留めていなかったのに、急に思い出されました。

 仕事でメキシコに派遣されているある日本人から、会社が独自に進入禁止と指定する「メキシコシティにおける危険地域」を3つ教えてもらったことがあります。そのうちのひとつが、彼女の生まれ育った場所なのです。私も、その場所には、週に数回という頻度で足を運んでいます。「危険地域」であることは、聞かずとも、歩いていれば景色からなんとなく分かります。もちろん私の歩き方も、ピリピリモードになります。リュックを前に抱え、必ず長ズボンを履いて、険しい顔でキョロキョロ。胃が弱ります。

 治安は大丈夫なの?
 メヒコにいると言えば、必ず聞かれる質問です。
 苦笑いで、私はいつもこう答えています。
 「大丈夫というわけではないよ」。
 実はこちらに来てからずっと、「治安」というものに対してどのように向き合えばいいか、悩んでいるのです。

 街の治安の話をするときは、どの路線(駅)とどの地区が危ないのか、という枠組みが使われます。
 「路線」と「地区」というものさしで「危なさ」を測るという方法は、その2つのものさしによって、そこにいるひとの「種類」がある程度分かる、という発想に結びつきます。端的にそれは、「貧困」と「危なさ」がセットにされるということでもあります。
 事実に照らして、確かに、この考え方の合理性を否定はできません。なにはともあれ、危ない路線と地区、という知識は頭の中に入れておかなくてはなりません。しかし、このラベル分けをもとにして、寄りつかない・見ないという態度が共有されれば、「治安」という言葉の裏で、ひとの分断が、自動的に、そして半ばイノセントに達成されていくことになります。
 「あそこはあまりお金のない人が住んでいる場所だから、行かない方がいいよ」という助言を聞くとき、その言葉の「シンプルさ」が私のなかに運んでくるかなしみを、私はどう処理すればいいのでしょうか。私はかなしくなりながら、でもまた苦笑いを浮かべて、「わかった」とこたえるしかありません。

 「治安」の半分くらいは、自分でつくるものだと私は思っています。
 良くも悪くも、イメージを信じ過ぎるのは良くありません。
 ここは比較的安全です、という情報に安心しきってはいけない、というのは当然のことかもしれません。が、私のほんとうの悩みの種は、その逆、つまり「危険エリア」という情報がひろく共有されることで何が起こるか、という疑問のほうなのです。

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角智春(すみ・ちはる)

1995年生まれ。島根県出身。耳の垂れた犬が好き。盆と正月には愛犬のビーグルと出雲大社周辺を散歩する。東京外国語大学でスペイン語を専攻。ゼミでは人類学&現代思想を真面目に勉強し、指導教員に「スミさんには、“自由とは何か”を考えはじめて200年、みたいな趣きがある」と言わしめた。

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