すみちゃんのめひこ日記

第4回「伝統」サウナで蒸されてわかったこと

2016.06.18更新

 土壁でできた背の低いドームの前で待っていると、上半身入れ墨だらけの、長髪をうしろで三つ編みに結った男性が現れました。装飾品をたくさん身に着けていて、自らを「シャーマン」と紹介した彼。この人の指導で、わたしのTemazcal(テマスカル)初体験がはじまる。胸がざわつきます。

 ナワトル語(メキシコ中央高原を中心にマヤ文明・アステカ文明などが栄えたメソアメリカ地域の、先住民言語のひとつ)でテマスカルとは、「汗をかく家」という意味で、北アメリカ・メソアメリカの様々な先住民文化においてつかわれてきた、伝統的な蒸し風呂のことです。もとは、古代の為政者や神官が神と対話するときや、病気の治療、出産のときにつかわれたものだといいます。「Prehispánico(プレイスパニコ、=スペイン人による征服・植民以前)の時代からあるサウナを知ってる?」とみんなから紹介され、「素晴らしい体験だよ」と太鼓判を押されて向かったこの蒸し風呂。実はそれは、ひと汗かくための娯楽などではなく、過酷な、闇と熱との闘いだったのです・・・。

 シャーマンの指導で清めの煙を浴びたあと、高さ1.5メートルに満たないドームのなかに這って入り、参加者十数人で輪になって座ります。全員が座ったところで、部屋の中心にある囲炉裏のようなくぼみに、Abuelita(アブエリータ、=おばあちゃん)と呼ばれる年代の古い石をつかった焼き石が積まれます。この石に薬草が混ざった水をかけて水蒸気を起こし、室内の温度と湿度をあげていく、という仕組みです。

 「伝統的でとても身体に良いのに、テマスカルに入ろうとしない人が多いんだ」「でも、おびえないでね。ゆっくり呼吸していれば、パニックにはならないから」。たかがサウナ、と思っていた私は、道中車内で友人みんながどうしてこんなに私を落ち着かせようとしてくるのか、全然わかっていませんでした。

「では、扉を閉めてください」。シャーマンの一声で、入り口に厚い布が掛けられます。
突然の真っ暗。

 本気で怖くなるほどの真っ暗で、退場者もちらほら。私はなにも言い出せず、次にどんなことが始まるのか、暗闇のなかでハラハラと待ちます。
 
「始めましょう」。ジュワッという水の蒸発音とともに、室内がどんどん蒸されていきます。蒸気をがんがん立ち上げながら、同時に、太鼓を使ったシャーマンのリードで歌をうたい、参加者のテンションが煽られます。暗闇で熱い蒸気が顔に吹き付けてくる恐怖。闇と熱の大声の相乗効果で、息苦しさがすごい。こわいこわい。このままどこまで温度が上がってしまうんだろう。ポイントは、「儀式なので、とても抜けられる雰囲気じゃない」ということです。これ何時間続くんだろう。私もさっき棄権しておけばよかった。何言ってるんだ、人類学ゼミ生のくせに「伝統儀式怖くてできませんでした」なんて情けないと思わんのか、すべて耐えて、ぜんぶみて帰れ。そういう自問自答の繰り返しです。
 
 みんな(私以外)の気分が高揚してきたところで、一人ひとりとシャーマンの対話がはじまります。輪の端から順番に、なぜ自分はテマスカルに来たのか、ということを話していきます。心身の治療・リラクゼーションと銘打たれたものなので、各々どんな悩みを乗り越えたいのか、けっこう赤裸々に語るのです。

 「仕事でストレスが溜まっている」から始まり、「元夫と揉めている」「いい歳なのに女好きがやめられない」「ひとり親としてどう子どもと向き合えばいいのか」など、相当個人的な問題が次々と提示されました。シャーマンはそれぞれにアドバイスをし、感極まって泣き出す人もちらほら。一方私は、高温高湿度(このとき100度くらい)との闘いをなんとか生き延びようと、温度の低い床にへばりついて浅い呼吸。なにもみえないから、もうどんな態勢を取ってもいいんです。

 しかし人生相談とはいえ、室内はけっして重苦しい雰囲気ではなく、ジョークを言ったり励ましの言葉をかけあったりしながら、リラックスのための場所をみんなでつくっていきます。恥ずかしがらずに悩みを打ち明ける空間がつくれるというのは、暗闇とサウナと歌の効果だけではなく、メキシコの人たちのいいところなのかなとも思います。大した悩みもなく、なんて気楽な心構えでここに入ってしまったのだろう、と焦っていた唯一の外国人に、「テマスカルで、この土地の文化を味わってくれよ」と、暗闇から誰かが声を掛けてくれました。 

 休憩、加熱、休憩、加熱を繰り返し、3タームにおよぶ全過程が終了。サウナに籠り続けて3時間半、脱水症状から病院搬送、海外留学保険の手続きまでのシナリオをハラハラと思い描き続ける、小心者な自分との闘いでした。

 それなのに、終わったあと私は、こう思ってしまったのです。「なんか、さわやかな気持ちになってるし、みんなとの一体感が増している。なんなら、またやってもいいかもしれない」。たぶんこの奇妙な快感は、蒸気のリラックス効果も、薬草や発汗の効果をも凌駕する、「あの苦しみをみんなで耐え抜いた」、という軍隊みたいなテンションのねじれなのではないかと推測します。それを「良き効果」とみなすかは人それぞれですが、少なくとも、終わった後に気持ちよくなってしまうのは事実です。ちょっとクセになるのも事実です。

「昨日テマスカルに行ったんです」。翌日、語学学校に教えに来ている文化人類学のパトリシア先生に話題を振ると、(やや予想がついていたとはいえ)ショッキングな返答が返ってきました。

 「数十年前から流行っているテマスカルと、もともと先住民がやっているテマスカルは形式が全然ちがうからね」。

 わたしが「ゼミの威信をかけて」くらいの意気込みで体験していたのは、70年代のヒッピーの流行とともに出てきた、先住民文化のつまみ食い的な、模擬テマスカルだったようです。

 今回の例に限らず、メキシコでは、瞑想、薬草、ヨガなど、いわゆる代替医療と呼ばれるものへの信頼が厚く、実践者もかなり多いという印象を受けます。そのなかにはもちろんファッション性を重視したヒッピーもいます。「フォークロアに魅了された人たちのなかには、"自然に生きる"という理念を求めた結果、先住民の暮らしの魅力的な側面のみを実践に移した人もいます。つまり、彼らの生の過酷さについては棚に上げてね」。先住民文化を生活に取り入れることそれ自体に問題はないが、それが、ある種の勘違いや商業的な利用に繋がっている点には注意しなければならない、とパトリシア先生は言います。買い手がそれに気付いているかいないかはさておき、「消費者にウケる」ようにデザインされた民間信仰や民芸品がたくさんあるのは、知られた事実です。

 「でも、多くの人たちがテマスカルのような実践を通して、現に心が軽くなったり、人生をちょっと充実したものに感じたりしているということを、どう考えればいいんでしょうか」。

 先生は私にこう答えました。「そういう人たちに対して、あなたたちが感じているものはニセモノです、と言うことは、全く間違っています」。

 私はさきほど、「つまみ食い的な、模擬テマスカル」と書きました。確かに、あの蒸し風呂が、もとの文脈から逸れたものであると言うことはできます。暗闇で円をつくった私たちには、「生産者」と「消費者」の影が差しかかっているとも言えます。

 しかし、一見「部分的な商品化」「つまみ食い」と言えそうであろうと、あるいは「フォークロアを、生き方の選択肢として取り入れている」という分析があろうと、もっとふかいところでは、それはそんな冷静なものではなく、合理的な説明のつかないべつのちからによって、ひとを引きつけている気がするのです。そして、その信仰のなかで現実に生きて、幸福になった、救われたという人の「実感」は、模擬=嘘ではありません。それはひとつの生き方の実体なのだと思います。

 ひとが生きているなかに、ニセモノの文化というのはたぶん存在しないこと、そして、この実践には「利用」という言葉では語れないなにかがあることをなんとなく実感した、テマスカル初体験でした。たぶん私は、あの不条理な気持ちよさを求めて、また行っちゃうと思います。

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角智春(すみ・ちはる)

1995年生まれ。島根県出身。耳の垂れた犬が好き。盆と正月には愛犬のビーグルと出雲大社周辺を散歩する。東京外国語大学でスペイン語を専攻。ゼミでは人類学&現代思想を真面目に勉強し、指導教員に「スミさんには、“自由とは何か”を考えはじめて200年、みたいな趣きがある」と言わしめた。

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