たもんのインドだもん

第15回 食べて、食べさせ、食べさせられ

2014.05.27更新

「♪ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」

 ぼくの前にバースデー・ケーキが運ばれる。友だちが買ってきてくれたものだ。
 コテコテのバタークリームが塗りたくられて、食紅で真っ赤になったドライフルーツが並ぶ。胸焼け必至の激甘ケーキなのは食べる前からわかっているが、こうして異国で誕生日を祝ってくれる人たちがいるのは嬉しい。
 電気が消され、キャンドルの明かりに友人たちの顔が浮かびあがる。
 日本と変わらない誕生パーティーの一幕だ。

 だが、ここからがインド流。
 キャンドルの火が吹き消すと、友人がケーキに右手をズブリと突きさし、ひとかたまりちぎりとる。手がクリームでぐちゃぐちゃになるのもおかまいなし。
 手づかみのまま、おめでとう! と、ぼくの口にケーキをおしこむ。
 ぼくは口のなかでケーキをもごもごさせながら、ありがとう! と言い、同じようにして友人に食べさせ返す。
 その場に集まった友人全員からケーキを食べされられ、食べさせると宴はたけなわ。
 みな満足げな表情になる。

 このワイルドな光景にはじめて遭遇したとき、ぼくは戸惑った。
 生まれてこの方、食べ物を手で他人に食べさせ、逆に他人から食べさせられることなんてなかったのだから。


 インドの人たちは、日常的に手でご飯を食べる。
 近ごろはスプーンやフォークで食事する都会的な人もいるが、まだまだ手食が一般的だ。

 当初はぼくも多くの日本人と同じように、手で食べることに抵抗があった。
 だが、慣れてしまえばこんなに便利なものはない。
 ぱらぱらの長粒米に、汁っ気のある料理を混ぜるには、手の方が楽だ。
 パン類も右手だけでサクッとちぎれる。ソースにつけるのも調節しやすい。料理人が計量さじを使わず、指先の感覚だけで適切な量の塩や調味料を取るのと同じ。

 ミールス(定食)のシメには、白ご飯にヨーグルトをワシワシ混ぜて食べる。
 塩やピクルスを指先でチョンチョン、ペロッと舐める。
 至福。ああ生きていてよかったと思う。

 人差し指、中指、薬指で三角形のフォーメーションをつくり、米に汁物を混ぜながら粘り気を出す。
 小さな団子をつくるようにまとめ、スプーンがわりの三本指の上に飯を乗せる。
 そのまま口先まで運んで、親指で飯をぐいっと押し出す。
 コツをつかむと、これ以上美しい食べ方はないんじゃないか、とさえ思う。
 ヨーロッパだってスプーンやフォークを一般人が使うようになったのはここ数百年のことだという。長い間、人類はみな手で食べていたのだ。


 友人の家や町中で、駄々をこねる子どもの口にご飯をおしこむお母さんをよく見かける。
 その手さばきは大したもの。
 右手で掴んだご飯を指の間から、つみれ団子のようにニュルッと捻りだすと、さっきまで泣いていた子どもが、従順な鵜のようにパカッと口を開ける。

 90年代のテルグ語映画に「友のために(Sneham Kosam)」という作品があった。
 主人公は若い暴れん坊。殺人者の子で、幼いときからみなにいじめられ、後ろ指をさされて生きてきた。
 ある日、その父親が懲役を終え出所してくるが、主人公は「あんたのせいで俺まで悪者あつかいされてきたんだ」となじり、追い返す。

 だが、物語の後半、実は父の殺人が人助けのための冤罪だったと明らかになり、主人公と父親が和解するシーンがある。
 皿を片手に持ち、右手でヨーグルトと飯をまぜて、「許してくれ、父さん」と息子が父親に食べさせる。みすぼらしく老いた父は何十年ぶりの食事のように、ゆっくり口を開け、息子の手からヨーグルトご飯を食べる。
 顎を動かすたびに、涙がぽろりぽろりと落ちる。二人とも何も言えない。
 劇場は全員号泣。ぼくも嗚咽。

 もしも、これがスプーンとフォークだったら、食器がカチャカチャいうばかりで、まったくさえないシーンになってしまっただろう。
 あの映画を見てから、ぼくの涙腺はおかしくなり、親が子どもに手で飯を食べさせる姿を見るだけでウルッとくるようになってしまった。


 ウルッとくる、と言えば、インドの結婚式。
 式前夜、花嫁はヘナというハーブの染料で手足に吉祥紋様を描く。
 ヘナは長時間おかないと色が定着しないので、花嫁は翌朝まで手を濡らせない。
 だから、その日の晩ご飯はお母さんが手で食べさせてあげる。

 嫁いでいく娘に一口ずつご飯を運んでいるうちに、母娘は泣いてしまう。
 母は手で食べさせていた幼いころの娘を思い出し、娘は育ててくれた母から巣立っていくことに胸をつまらせる。
 こうして手で食べさせるのも今宵が最後。涙なしには語れない美しき晩餐だ。

人間が人間に食べさせる、という行為は、単純に食べ物が手から口へ運ばれる、ということ以上にいろんな意味がこめられている。これはインド流の親愛の表現といってもいい。


 バンガロールの映画スター、ウペンドラの誕生日。
 パーティーに招かれ、彼の家にむかうと、町がお祭り騒ぎになっていた。
通りは通行止め、派手な色のテントが張られ、誕生日を祝う巨大看板がどどーんとたっている。次々とお祝いの品が届けられ、スターの豪邸前は黒山の人だかりだ。

 そんななか、どこからか巨大なギターの形をしたデコレーションケーキが運ばれてきた。
 ファンたちの嬌声がこだまする。
 スターの事務所スタッフがケーキを集まったファンたちにふるまう。
 もちろん、手づかみ。うぎゃー、俺もくれー、とケーキ欲しさにむさい男どもが殺到し、四方八方から手が伸びる。ちぎられて、奪い取られ、手から手へ渡されるケーキのかけら。もはやデコレーションは崩れ、スポンジもクリームもごっちゃまぜ。

 あっけにとられている日本人ファンのぼくを見つけたスタッフの男が、
「おい、まだもらっていないのか。よし、これをあげよう」
 とぼくの手にケーキを投げる。
 手の上にはもはやぐちゃぐちゃのペースト状になってしまった「かつてケーキだったもの」がのっている。
 躊躇しているぼくをみて、男が続けざまにいう。
「食え。俺の手は黄金の手だぞ」
 際限なくケーキをねだる男どもにもみくちゃにされながら、えいやっとケーキを口にする。
 味わうひまなどない。のみこみ、ニコリと笑う。
 たぶん、これでぼくも彼らの仲間入りだ。

 だって、インドだもん。

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矢萩多聞(やはぎ・たもん)

1980年横浜生まれ。9歳のとき、はじめてネパールを訪れてから、毎年インド・ネパールを旅する。中学1年生で学校に行くのを辞め、ペンによる細密画を描きはじめる。1995年から、南インドと日本を半年ごとに往復し、日本帰国時に、銀座、横浜などで個展を開催する。

2000年、日印コミュニティサイト「Indo.to」をオープン。2002年、対談本『イン ド・まるごと多聞典』(春風社)を刊行。このころから、本の装丁の仕事をはじめる。バンガロールのアトリエをキープしつつ、2012年、事務所兼自宅を京都に移転。現在、インド/横浜/京都を行き来し、装丁、ペン画、エディトリアル・デザイン、イベント企画など多岐に渡って活動をくり広げている。

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